ヘビは樹の幹に胴体を巻き付け、首のあたりをくねらせて今にも獲物に飛びかかろうという状態だった。
人間の女は崖の斜面を背にしていて、足元には細い水の流れもあり、どう逃げていいものか迷っているように見える。
崖の上から足をすべらせてここまで落ちてきたのだろう、服が泥だらけだ。
そのときに落としたのか、猟銃のようなものが転がっている。
が、それを拾うためにはヘビに近づかなくてはならない。
この状況、俺には好都合だった。
幸いヘビにも人間にも気づかれていない。
——悪いけど、逃げよう。
彼女には気の毒だが、こんなところに来たのが悪い。
樹の枝を伝ってこの場から離れよう。
谷を登って、巣に帰ろう。
そのとき俺は〝一刻も早くムラサキの元に行かないと〟という考えに基づいて行動していたのは間違いない。
しかし、現時点で優先するべき事象が発生していることに気づいてしまった。
空腹である。
「腹が、減った……」
見れば眼下に二匹の獲物がいるではないか。
ヘビと人間。
どちらも大層なご馳走なのだ。
放置していいわけがない。
これから巣穴に戻るまで結構な距離ではないか。
食事は摂れるときに少しでも摂っておかないと、この先食える保証などないのだ。
一番いいのはヘビが人間を殺し、食いかけのところを俺が襲って、結果ヘビと人間両方を食うことだ。
ヘビを殺せばまた肝が食えるし、人間はまだ食ったことないが肝はヘビ以上に美味いはず。
そうこうしているうちにヘビは女との距離をゆっくりと詰めていく。
俺は樹の上から、ヘビがそうしているように、じりじりちょっとずつヘビに近づいていく。
ちょうど、俺の直下にヘビの頭があった。
ヘビは人間に夢中でまったく俺に気づいていない。
人間の方は——。
そのとき女と、バッチリ眼が合った。
ああ、あまりにも迂闊。
そうだ、人間の視界は広いし、そもそも俺は犬くらいの大きさがあるんだった……。
「……ひっ!」
俺を見つけた彼女の、息を呑むような短い悲鳴。
確かに彼女からすれば絶体絶命の上さらに天丼で危機が降ってくるようなもので、悲鳴の一つも上げたくなるだろうが、そのせいで俺がヘビに気づかれては元も子もない。
俺は幹を掴んでいた手足を離した。
音もなくヘビの頭上に落ちていく。
俺の手がヘビの首を掴み、そのまま落ちるに任せる。
ヘビの頭を地面に叩きつけ、手のひらに首の骨の折れる感触。
樹の根に頭を何度も打ち付ける。
それくらいではヘビはくたばらない、胴を俺に巻き付けようと身体をくねくねと踊らせた。
巻き付かれる前に首を噛みちぎり、頭と胴体を切り離した。
鮮血を吹き出してのたうち回る胴体が、だんだんと力を失い、ついにはぐったりと土の上に転がった。
ヘビの頭は首だけになってもまだ口をパクパクとしている。
この生命力が漢方で薬になる所以か。
俺は血の滴っている首を放り投げ、胴体の方を掴むとバリバリと引き裂き、内蔵を引きずり出して食った。
——美味い!
胃袋、肝臓、胆のうを生のまま齧る、こんな光景、人間の女にはどう映るのだろうか。
血まみれのヘビの内臓をガツガツと食っている、犬ほどもある大トカゲを。
見れば彼女は眼も口も丸くして呼吸が止まるほど引いている。
彼女と俺は、見つめ合っていた。
俺の本能は、ヘビよりも人間を選択したらしい。
トカゲになってから初めて至近距離で遭遇した人間 (蜘蛛女はカウントしないものとする)——彼女の発する熱や匂いに、食欲が強く刺激されたのだ。
首筋から胸にかけて開いた襟元の、汗でテカった柔らかそうな白い肌がどうにも「美味そう」で仕方ない。
性的な意味ではなく、いや人間のときの俺なら性的ななにかを感じたかもしれない、化粧っ気がないとはいえ顔だって別にどっちかといえば好みのタイプの若い女だ。
しかし今、そこに湧き上がってきたのはまぎれもなく〝食欲〟であり、ヘビなんかより俄然可食部も多く脂も乗っている、労せずに食べられる眼の前の食糧、しかも活きている——!
いやいやいやいや。
ここで人を襲うのは得策ではない。
ヘビだってまだまだ残ってるんだし。
いやいや待て。
ここでは人間は俺たちの〝敵〟であり排除すべき〝異物〟だ。
そして弱肉強食というルール。
彼女を食べるのは自然なことだし、それを咎めるものは誰もいない。
だいたい俺が人間を食ったからなんだっていうんだ——。
だめだ!
俺は元人間!
人間は (相手にもよるが)仲間であり、愛すべき隣人なのだ。
それを食べるなんてとんでもない!
……なんていう自問自答をやっていたらいつのまにか彼女がすごい近くまで接近してきていて……。
——えっ!?
足元に落ちていた銃を拾い、俺に向けて構え、引き金を引いた。
この至近距離で!?
ぽんっっ!! という間の抜けた音とともに銃口から、動物捕獲用のネットが発射された。
俺は反射的に地面に潜る勢いで伏せた。
ネットが頭上ギリギリを掠めて飛んでいき、俺が背にしていた樹の幹をぐるぐる巻きにした。