異世界には、人間蜘蛛と呼ばれるモンスターがいた。
しかしそれは蜘蛛の頭の部分に人の顔がついてるような感じの生物だった。
いま、眼の前にいるのは……。
「なに見てんのよ」
「あ、ごめんそういうんじゃなくて」
「じゃなに?」
「蜘蛛……でいいのかな?」
「見ればわかるでしょ」
「わかるけど、その顔ってか上半身は——」
蜘蛛の腹から、人間の上半身が生えてるみたいだ。
胸も膨らんでるし手の先には五本の指、髪も黒髪ロングで少しウェーブしてる。
「半分、人間に見えるんだけど?」
「あんた人間見たことあんの?」
「あー、まだ見たことはないけど (この世界では)」
「そう。なら見ないで済むように祈りなよ」
この世界には人間が存在する……。
「きみは見たことあるの、人間」
「ない。あるわけない」
「人間は、いるんだよね?」
「そりゃ人間はいるよね」
「どこに住んでるとか」
「さあ。あたしはこの建物から出たことないからね。この中のことしかしらないよ」
建物……?
「……これ……ここは建物なの?」
「そうだよ。この上、登ってみなよ。いい眺めだからさ」
彼女は崖の上を脚で指した。
崖……と思っていたものは、本当は斜めに切り立った石造りの建物の壁だった。
段差に積もった土砂と表面に生えた草や苔がまるで自然物のように見せていたのだ。
蜘蛛女はすいすい斜面を登っていった。
俺はムラサキを背に乗せ、追いかけるように崖を這い登った。
ここは建物の土台のようで、登り切ったさらにその上にも崖がそびえ立っていて、またその上には塔のようなものが空に伸びている。
結構登ったつもりがまだ全然下の方であることを確認して途方に暮れていると、
「まあそこからでもいいから、下を眺めてみなって」
蜘蛛女に言われて振り向くと、眼下に自分たちがこれまでたどってきた世界があった。
それはあまりにも狭く小さく、俺が卵から孵った場所も、ヘビを追った軌跡も、フクロウが死んでムラサキが生まれたあの樹も、一望できた風景のほんの一区画に過ぎなかった。
そして石造りのこの建物は、高い塀で囲まれている。
俺にとっては当面、塀の内側が全世界のようだ。
「おーい!」
上から蜘蛛女の声がした。
彼女はさっさと一人で斜面を登っていて、結構上の方にある小さな穴から顔を出していた。
「ここ! 今なら空いてるから、巣を作ればいいんじゃないかな?」
俺たちに、手を振っていた。
「あそこまで登るのか……」
非常な高さにげんなりとしつつ、ムラサキを背に乗せたまま登っていった。
蜘蛛女が教えてくれた穴は、石のブロックが抜け落ちてできたらしい窪みだ。
トカゲ一匹とフクロウの雛鳥なら十分な広さだった。
中に入ると少し上に向かって傾斜していて水はけも良さそうだ。
床は枯れ草が敷き詰められて、隙間になにかの糞が詰まっている。
「ここは……前は誰か住んでた?」
「ネズミが住んでたっけね」
「なんでいなくなったの引っ越し?」
「んー、事情は知らないけど、たぶん家族が増えたから、手狭になったんじゃない?」
「ふーん」
まあ、そういうこともあるか……。
「ムラサキ、ここでいいか?」
「んー……」
「ムラサキ?」
いつものテンションでぴょんぴょん飛び跳ねながら喜んでくれるものかと……。
「あたしちょっと……いやだなここ」
ムラサキは険しい顔をしている。
なにが気に入らないのだろう。
「なんで? いい家じゃないか……?」
「なんていうか、囁くのよ、あたしの本能が」
「本能?」
「なんかねー。暗いし狭いし。あと臭いし。あたし鳥だから、基本樹の上がよくて……」
「あー、お姫様はなーんか気に入らない感じ?」
蜘蛛女がいらついてるのがわかる。
「ババアは口出すな」
「ハァ? 串刺しにして炭火で焼いたろかメスガキが」
「あ? やんのかコラ」
ムラサキが短い両翼を広げて威嚇する。
「まあまあまあまあ」
俺は二匹の間に入った。
「だめじゃないかムラサキ、そんな、ババアなんて言っちゃ失礼だろ」
「あたし生まれたばっかだぞ、どんな女もババアだろ!」
「だからって年増の女性にババアは禁句だ」
「おい」
蜘蛛女がすごい眼で睨んでいたのは俺だった。
「はい」
「お前もめっちゃ失礼感漂ってんだよなぁババア連呼しやがって」
「あっ……申し訳ない……俺もこいつもまだ孵ったばかりだから、許して……」
ムラサキの頭を無理矢理下げさせ、俺も下げた。
その様子が哀れに見えたのか、舌打ちしながらも、
「まあ、いいよ。もう夜になるし、あたしは巣に帰るから……」
いつの間にか日が傾いていた。
西日が入って、オレンジ色の光が穴の奥まで差し込んでいる。
「ありがとう。助かったよ」
「こういうとこで暮らすなら、助け合わないとね。なんか困ったことがあったらいつでも呼びな」
蜘蛛女は尻から出した糸を巧みに操って下へ飛び降りていった。
「ムラサキ、しばらくはここで我慢してくれよ」
「……しゃーないか」
ムラサキはまだ不満そうにくちばしを尖らせていた。
「ほらムラサキ、見ろよ。きれいじゃん」
遙か彼方の、空を指差す。
「はーあ。きれいだねぇ……」
俺もムラサキもしばし見とれていた。
時間が立つにつれ夕焼けは、不気味なほど真っ赤に染まっていって、これがなにかの凶兆だと言われたら、信じる。