千春さんが足を攣ってしまって溺れかけたところを私が救助したあと、三人でプライベートビーチをあとにした。
どうやら当初、千春さんは足を攣るフリだけして、司に助けてもらうことによってスキンシップを図ろうとしていたようだが、それがまさか本当に足を攣ってしまうことになるとは…………
やはり、海で泳ぐ前はしっかりと準備運動・ストレッチをしておくことが大切だという教訓になった。
そして、日が傾き、プライベートビーチの水平線に夕日色が燦爛と映された頃――――
「千春様、もう大丈夫ですか?」
「えぇ、ありがとうございます。結香さん」
プライベートビーチの傍に建つ『花ヶ崎家』所有のコテージの一室で、私は千春さんの身体のストレッチと軽いマッサージを行っていた。
足を攣るのは一時的とはいえ、その後も筋肉が緊張したような違和感が残るものだ。
千春さんがこうなったのは自業自得だ、というのが正直な私の感想だが、それも司を振り向かせようと千春さんなりに頑張った結果。
私自身そういう気持ちがわからないわけではないので、意外にも嫌な気分ではなかった。
「では、千春様。テラスに向かいましょう。バーベキューの準備は既に整えてあります」
恐らく千春さんの――というか、花ヶ崎社長に仕える人達が用意していたのだろう。
冷蔵庫の中に新鮮な肉や海鮮、野菜があったので、折角なら使わせてもらおうと考え、私はここで千春さんに施術する前に、あらかじめテラスで炭を熾していたのだ。
枯れ木に火をつけるのとは全く違う。
炭を熾すにはそれなりに時間がかかるが、ある程度炭が赤くなったあとは司に世話を任せたので、今頃はちょうどいい具合の火加減になっているはずだ。
「何から何まで……本当に、感謝しています」
「い、いえいえ! 頭をお上げくださいませ。私は司様の世話係……これくらい当たり前のことです」
千春さんが丁寧に感謝を伝えてきたので、私は少し焦りながら返す。
「ふふっ、世話係……良いですね」
「千春さんにも、そのような付き人がいらっしゃるのでは?」
「付き人、は確かにいますが、別に私のというワケではないんです。あくまでお父様の指示で、わたくしの傍に居るだけにすぎませんわ」
もちろんいつも何かと助けていただいてはいるんですよ? と語弊がないように千春さんが付け加える。
「……でも、羨ましいと思ってしまいました、司くんが。結香さんのように、自らの意思で傍に居てくれる方がいるなんて。私の周りいるのは、いつも誰かに言われたからそこにいる方々ですから……」
千春さんの糸目の目尻がスッと垂れ下がった。
どこか哀愁に満ちていて、寂しそうに見える。
どこか放っておけない――司とはまた違ったベクトルで、そう思わせてくる。
だから、私は無礼を承知で、
「行きましょう!」
「えっ……!?」
私は千春さんの手を掴む。
端から見れば、立場を弁えない不躾な行為だろう。
それでも、私はその手を引いて、小走りした。
「そんな悲しいことは忘れてパーッと羽目を外しましょう! バーベキューですよ!? 確かに私は司の世話係ですが、今日だけは千春様の傍に居ますから。私の意思で」
「……っ!? 結香、さん……」
普段糸目の千春さんの目蓋が大きく開かれた。
隠れていた赤褐色の瞳が、真ん丸と見開かれて私を見詰めてくる。
そして――――
「……ふふっ……あはははははっ……! そうですねっ!」
千春さんは、楽しそうに、愉快そうに笑った。
いつもの何を考えているか見えてこない淑やかな仮面を被った千春さんよりも、私は今こうして歳相応の表情を見せている千春さんの方が好きだと思った――――
◇◆◇
「結香、何か焼けたか?」
「もちろんです。はい、どうぞ」
「…………また牡蠣?」
私はもう七つ目となる焼き牡蠣を司の手にあるお皿に乗せた。
「流石にお腹壊さんか?」
「千春さんの水着姿に鼻の下伸ばして、それはもう楽しそうに遊んでいた司なんて知りませんっ!」
なぁ~にが『安心しろ。何を仕掛けてくるつもりなのか知らんが、そう簡単に俺が絆されるワケないだろ?』だ。
カッコいいこと言っておいて、実際こうしてプライベートビーチに来てみれば、まんまと千春さんに絆されてしまっている。
「おいおい俺は別に――」
「――あっ、千春様。お肉焼けましたよ。沢山食べてくださいね」
司なんてもう知らない。
私はサササッと焼けたお肉をお皿に乗せて、椅子に座って食事を楽しんでいる千春のもとへ持って行く。
「ふふっ、ありがとうございます」
後ろの方で司が「何か俺との扱いの差凄くね……?」と呟いているが、無視無視。
「千春様――」
「――結香さん。わたくしのことはもっと気軽にお呼びください?」
「えっ……?」
「ふふっ、その代わり、わたくしも『結香ちゃん』と呼ばせてくださいませ」
少し照れたように微笑みながらそう言ってくる千春さんに、私も少し気恥ずかしくなりながらも嬉しさが込み上げてきた。
「はい、もちろんです。千春さん」
「ふふっ」
千春さんは満足そうに笑うと、私の焼いたお肉をパクッと口に含んだ。
「あぁ~あ、わたくしにも結香ちゃんみたいな付き人がいたらなぁ~」
「あはは、大袈裟ですよ」
「あっ、そうだ。結香ちゃん、わたくしに雇われませんか? 報酬は言い値で構いませんよ?」
「え……えぇえええええっ!?」
どうやら、随分と千春さんに気に入られてしまったらしい…………