それは、長期夏季休暇も終盤に差し掛かった頃――――
ヴゥーヴゥー。
リビングでくつろいでいると、テーブルの上に置いてあった司のスマホがバイブレーションしながら、小気味の良い電子音を響かせた。
そこへ、ちょうどトイレから司が戻ってきたので、私は司のスマホを取って手渡す。
「司、電話ですよ」
「おっ、サンキュー」
手短に礼を言ってスマホを受け取る司。
私のすぐ傍で話すのも何だろうと考えてか、司はスマホを耳に当てながらリビングを出で玄関の方へ歩いていく。
私はその背中を見詰めながら、胸の奥でモヤが立ち込めてくるのを感じていた。
意図して見たわけではない。
それでも、目の前のテーブルに置かれていたスマホに着信があれば反射的に画面へ目が向かってしまう。
司のスマホに映し出されていた着信画面には、現在政略結婚の話が出ている『花ヶ崎千春』の文字があった。
一体何の用事だろう……?
司は前に『結婚相手まで勝手に決められるつもりはない。どう生きるかは俺が決める』と言っていた。
だから、少なくとも現時点で司に千春さんへの恋愛感情はないし、ましてお付き合いをする意思もないだろう。
しかし、千春さんの方は違う。
司へ好意があるかどうかは預かり知らないが、家の――『花ヶ崎ホールディングス』の利益のために司との結婚を狙っているのは確か。
そのためには、司に自分と結婚することを前向きに考えさせる必要があり、必ず何かしらのアプローチを仕掛けてくるに違いない。
果たしてそれがどの程度のアプローチなのか……一般的な学生同士のスキンシップに留まるのか、それとも責任を取らせざるを得なくなるような既成事実を作るのか。
わからない。
あの目尻の下がった穏やかな糸目の奥が、一体何を見て、何を考えているのかわからない。
だからこそ、私がきちんと警戒しておかなければならない。
なんせ、司の世話係ですから……!
グッ、と私が気合いを入れるように握り拳を作っていると、電話を終えた様子の司がリビングに戻ってきた。
「結香ぁ~、明後日海行くぞ~」
「……へ?」
戻ってきて早々のその発言に、私は間抜けな声を溢して呆然とする。
「う、海……? えっと、どういうことですか?」
「いや、今千春先輩からの電話だったんだけどさ。明後日プライベートビーチに招待してくれるらしくて」
流石は『花ヶ崎ホールディングス』の社長令嬢。
プライベートビーチだろうが別荘だろうが、所有していても驚きはしない。
ただ、その話の流れで司が「海行くぞ」と言ったということは…………
「え、それで招待を受けたんですか?」
「まぁな。夏なのにまだ海いってなかっただろ?」
「ま、まぁなって、司……」
どう考えても千春さんの策略だ。
夏、海……誰にも邪魔されないプライベートビーチ。
それだけの条件が揃って、何もアプローチを仕掛けてこないはずがない。
私は呆れ顔を司に向ける。
「どう考えても向こうの作戦ですよ?」
「わかってる」
司は承知の上だと肩をすくめる。
「安心しろ。何を仕掛けてくるつもりなのか知らんが、そう簡単に俺が絆されるワケないだろ?」
「ま、まぁ……」
確かに司が女の子にデレデレしている姿は想像がつかなかった。
私はそんな司の言葉を信じて「そういうことなら……」とあまり乗り気ではないままに頷くのだった――――
◇◆◇
そして、二日後。
花ヶ崎家所有のプライベートビーチ。
静かで落ち着いた砂浜に、寄せては返す白波の音が心地よく響いている。
普段であればその光景を座って眺めて、感慨にでも浸るかもしれないが、生憎今はそういう状況ではなかった――――
……おい。絆されないって言ってたのはどこのどいつだっけ?
私は有言実行ならずの司にジト目を向けていたのだった。
「――ちょ、千春先輩……!?」
「ふふっ、そう恥ずかしがらずに。ただ少し日焼け止めを塗ってくださるだけでよろしいのですよ?」
白いビキニに水色のパレオを腰に巻いた千春さんが、浮かべる淑やかな笑みとは裏腹に、積極的に司の腕を掴み、ブルーシートが敷かれたパラソルの下に引っ張って行こうとしている。
男子である司の方がフィジカル的には強いはずなので、司が本心から拒めば千春さんも諦めるだろうが、残念ながらそうはならない。
外行き王子様モードの司が、珍しくそのキャラを保てずたじたじになってしまっている。
まぁ、無理もない。
正直、同性である私でさえ千春さんの水着姿はドキドキしてしまうのだから。
栗色の長髪は後頭部の高い位置でポニーテールにされていて、お見合いのときには見えなかったその色香を漂わせるうなじが曝け出されている。
白ビキニは存分に胸の膨らみを強調しているし、しなやかなおみ足もパレオを巻くことによって見え隠れする心臓の悪さを与えてくる。
「ぬ、塗るだけと言っても、あまり不用意に女性の身体に触れるのは――」
「――ふふっ、司くんは紳士なんですね。でも大丈夫ですよ。私、司くんになら触られても構いません」
「~~っ!?」
誤魔化しが効かない程度には、司の顔が紅潮している。
なに鼻の下伸ばしてんだ、と冷たい視線を背後から送りながら、私は自分の身体を見下ろした。
パーカーを羽織ってジッパーも完全に閉じてしまっているが、この下には比較的布面積は大きいものの、一応カーキ色のビキニを着ている。
同年代の女子と比べて胸も若干慎ましやかで、腰は締まっていると自負しているがその分女性的な柔らかさを感じさせる身体ではない。
抜群のプロポーションを誇る千春さんがいるこの場所でとてもパーカーを脱ぐ気にはなれないし、まして千春さんに手を引かれる司を女性としての魅力でこちらに引き止めることも出来ないだろう。
しかし、このままでは司が千春さんに連れていかれてしまう。
日焼け止めを塗るという口実のもと、一体何をされるかわかったものではない。
何としてでも、この状況を打破しなければ。
そう決めたら、行動は早かった。
「お待ちください、千春さん」
「えっ?」
私は司と千春さんの間に割り込むように駆け付けた。
「日焼け止めを塗るだけでしたら、私が承ります」
私は一介の世話係。使用人のようなもの。
立場を弁え、あくまで丁寧な口調で、穏やかに。
しかし、否と言わせない意思を込めて。
突然のことに戸惑う千春さん。
その隙に、私は司へさりげに目配せする。
それに応えた司が頷き、場の空気をリセットするように咳払いをした。
「コホン。そ、それが良いですよ。ボク、誰かに日焼け止めを塗った経験もないですし、万が一にも千春先輩の身体を引っ搔いてしまって傷でもつけてしまったら大変です」
爽やかな笑みを取り繕い、ポン、と司が私の肩に手を乗せた。
「結香、頼んだ。くれぐれも千春先輩に失礼のないようにな?」
「はい、承知いたしました」
私は従者の如く司に一礼してから、千春さんの方へ向く。
「では、千春様。こちらへ」
「……ふふっ。まぁ、そういうことでしたら仕方ありませんね」
残念そうな表情を見せたのも一瞬のこと。
千春さんはすぐに微笑みを浮かべると、私の付き添いと共にパラソルの方へと歩き出す。
……油断ならない。
このプライベートビーチにいる間、私がしっかり司を守らないと……!!