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第08話 ご主人様の胸の内

【院瀬見司 視点】



「……ん、うぅん…………?」


 まるで海の底に沈んでいた気泡が海面に浮上してくるように、深いところにあった意識が現実に引っ張り上げられる。


 ……あれ?

 俺、何してたんだっけ……?


 寝起き特有の不鮮明な意識の中で、状況確認のためにゆっくりと目蓋を持ち上げる。


 すると、真っ先に視界に飛び込んできたのは眩しさ。

 緋色の輝きは夕日の色だ。


 どうやら思いの外長く眠ってしまっていたようだが、そんな時間の経過を気にする間もなく、俺の心臓がドキッと大きく跳ねた。


 窓から差し込む夕日の色に照らし出される見慣れた少女の顔。

 俺の世話係であり幼馴染でもある、近衛結香の眠り顔だ。


 それが、俺の目の前に――見上げる角度で視界に映っていた。


 色白の肌はまるで照れているかのように赤く染まり、いつも気怠そうな黒い瞳には優しく目蓋のカーテンが下りている。


 そうだった。

 俺は中間テストの点数勝負で当然のように結香に勝ち、手に入れた命令権で膝枕を頼んだのだった。


 意外と寝心地が良く、横たわっていると眠気がやって来て、少し目を瞑っているだけのつもりだったが、そのまま眠ってしまったらしい。


「……ったく、無防備な顔しやがって……」


 まぁ、それは俺もなんだが。

 コイツ、俺が眠ってる間に、変なイタズラしてないだろうな……?


 俺は少しばかりの疑いの心を持ちながら、枕代わりにしていた結香の太腿からそっと頭を持ち上げる。


 俺一人分の――正確には俺の頭部一つ分の重みがなくなったことになるが、結香は変わらずスヤスヤと静かな寝息を立てたままだ。


 俺はそんな結香を起こさないよう隣に座り直す。


 特にやることもなく、手持ち無沙汰にぼぅっとしていると…………


「ん……うむぅ…………」

「お、起きたか結――かっ……!?」


 隣から唸り声が聞こえてきたので、てっきり結香の目が覚めるかと思ったが、残念ながら俺の予想は外れた。


 結香は寝返りを打つように身体の向きを変えてそのまま倒し、コトン、と俺の肩にその小さな頭を乗せてきた。


 ドッ、ドッ、ドッ…………!!


 結香の髪からふわりと香ってくる良い匂いに、肩越しに感じる結香の体温に、俺の心臓がどうしようもなく加速する。


 もしいつも通り結香が起きていて、今現在からかい合っているときであれば、俺は強固なポーカーフェイスを作り上げて、この本心が間違っても結香に伝わらないようにするだろう。


 しかし、今は寝ている。


 この鼓動が聞こえてしまう心配もなければ、高まる俺の体温が伝わることもなければ、まして、口が裂けても俺が結香に直接言わない本心がバレることもない。


 だから、無防備になる。


 いつも少しからかっただけで必死になって仕返ししようとしてくる結香が、今こうして寝顔を晒して無防備になっているように。


 俺もそれにつられて、無防備になる。

 バレる心配がないというこの状況が、俺を無防備にする。


 俺はまるで誘われるかのように右手を伸ばし、結香の横顔に垂れる黒髪に触れると、その髪をそっと持ち上げて耳に掛けさせた。


 晒された夕日色の頬に指を伝わせ、顎の先を摘まむ。


 俺の方に向かせた無防備な結香の顔。

 未だ起きる気配のない結香の顔。


 俺はそんな彼女の顔に自身の顔をゆっくり近付けていき、自分の吐息と結香の寝息が混じり合ったところで、その薄桜色の唇にそっと自分のものを重ねた。


 静寂に包まれた部屋の中、音のないキスをする。

 それは、ほんの数秒にも満たない一瞬の口づけ。


 ……柔らかくて、あったかいな。


 俺は顔を結香から離す。

 未だ自身の唇に残る感触が、時間差で俺の顔を熱くしていく。


「……ったく、何やってんだ……俺……」


 今更ながら、自分のやったっことが馬鹿らしく思えて、後ろ頭を掻いた。


 まだ寝ている結香を起こしてしまうのも悪いし、何より今は同じ空間にいるのが妙に居たたまれない。


 結香が起きるまで、俺は自分の部屋で過ごしておくことにした――――



◇◆◇

【近衛結香 視点】



「ふわぁ~。っと、あぁ……寝ちゃってたか……」


 心地良い眠気から解放され、私は両腕を大きく持ち上げて伸びをする。


「あれ、司は……?」


 確か私の膝の上で眠っていたはずだが、その姿が見当たらない。


 どうやら私が目覚めるより先に起きたようだ。

 今は……自分の部屋にでもいるのではないだろうか。


「よし、夕食の準備しなきゃ」


 私はソファーから立ち上がり、リビングが見渡せる構造になっているキッチンへ向かい、支度を始める。


 学校から帰ってきたときにお風呂掃除は済ませてあるので、私が夕食を用意している間に、司には――――


「司ぁ~! お風呂入ってくださーい!」


 キッチンからやや声を張って声を掛けると、少し遅れて司の部屋の扉がガチャリ、と開いた。


 面倒臭そうに頭を掻きながら、司が姿を見せる。


「なんだ、起きたのか」

「はい、ついさっき。というか、寝るつもりなかったのに司が寝始めるのでつられてしまったじゃないですか」


 そうなのだ。

 私は別に寝るつもりはなかった。


 お風呂掃除は済ませていたから良いが、他にもあらかじめお米を研いで炊飯器にタイマーでセットしておいたり、夕食のおかずの下ごしらえなどもしておきたかった。


 それなのに、司が気持ち良さそうに目の前で眠ったせいで、私にも抗えない睡魔がやってきてしまったのだ。


 まぁ、そんな手間の掛かる夕食のメニューにするつもりはないので、今から作れば良いだけの話なのだが、それでも多少予定が崩されたのは事実。


 少しばかり文句を言ってもバチは当たらないだろう。


 だが、そんな私の予定など知ったことかと言うように、司がニヒルに肩を竦める竦めた。


「不満そうな割には、スヤスヤ安眠してたみたいだけどな? 無様に寝顔を晒して」

「なぁっ……!?」


 言われるまで気付かなかった。

 そうだ、司が先に起きたということは、私の寝顔を見られたということだ。


 いつも私をからかってくる司のことだ。

 もしかしたら、私が寝ている隙に変なイタズラをされたかもしれない。


「ちょっ、人の寝顔なんか見ないでくださいよ! っていうか、変なコトしてないでしょうね!?」


 慌ててそう尋ねると、司は一瞬目を丸くしたように見えたが、すぐ意味ありげに口角をニヤリと吊り上げた。


「んあぁ~、どうだったかなぁ~?」

「こ、コイツぅ……!」


 その反応は一体どっちなのか。


 本当は何もしていないにもかかわらず、意味深に笑って私を揺さぶっているだけなのか、それとも本当に何かイタズラをしたのか。


 しかし、どちらにせよこの瞬間、私が困らされている時点で、司のからかいは成功しているということになるのだろう。


 まったく……ご飯抜きにしてやりたい……!!

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