朝食も食べ終わり、歯も磨いた。
今日の授業で使う教材も全部カバンの中。
よし、準備完了。
「司さ……つ、司。準備出来ましたか?」
「ははっ、めっちゃ恥ずかしそうだな」
「う、うるさいなぁ……」
つい反射的に敬称をつけそうになったのをわざわざ呼び直してやったのに、からかってくるんじゃないよ。
そんな文句を心の中で呟きながら玄関でローファーを履き、姿見でおかしいところがないかを確認。
紺色ブレザーに、膝上丈の灰色チェック柄プリーツスカート。
シャツの襟では一年生であることを示す青色リボンをキュッと結んでいる。
肩口に触れる辺りで切り揃えられた黒髪と、我ながら気怠そうな黒目。
恥ずかしさからか若干顔に赤みが差しているのと、同世代に比べて胸の辺りに少々膨らみが不足しているのを覗けば、問題なし。
「ほら、さっさと行きますよ――って、あぁもう! ネクタイ!」
「ん、何だ?」
何だ、じゃないよ。何だ、じゃ。
私は今から靴を履こうとしていた司を見て――正確にはその襟首辺りを見てため息を吐いた。
「んもぅ、ネクタイは綺麗に結んでくださいっていつもいつも……」
一体何がどうやったらこんなグチャグチャに結べるんだか。
そりゃ、小さいときから公の場でネクタイを結ばないといけないときなんかはいつも私がやってたけど、高校生になって自立するんでしょうが。
何回結び方を説明すれば、綺麗に結んでくれるようになるのか。
司は決して不器用なわけではない。
というか、超絶器用だ。
生活力が皆無であるという点だけを覗けば、基本何でもすぐにコツを掴み、誰よりも上手くやる。
流石は天才と言うべきか。
だから、こうやってネクタイを毎日毎日適当に結ぶのはわざとだ。
一体なぜ? などと考えてもどうせロクなことじゃないので、そこは追及しないのが私流。
「ほら、ジッとしててください」
「おう。いつも悪いな」
「本当にそう思ってるならいい加減自分でやってください……」
口先で謝られても正直イラッとするだけだ。
私は司と向かい合い、その襟首に手を伸ばす。
グチャグチャに結ばれたネクタイを一旦解き、もう目を瞑ってでも出来るいつも通りのやり方で綺麗に結び直した。
「ほら、やり方はこんな感じです」
「いや、知ってるが」
「知ってるならやってよ!?」
もう泣きたい。
泣いて良いよね、私。
悲しみからの涙ではない。
呆れ果てての涙だ。
だが、ここで泣いたら司の思う壺だ。
どうせ、毎度毎度こうやって私に結び直させるのも、じわじわと私のメンタルを削って折れるのを待っているからなのだろう。
めげてなるものか。
こんな男に屈するな私!
そう自分を奮い立たせていると、司がネクタイから下ろし掛けていた私の手を不意に握ってきた。
「え、ちょ――」
「いくら教えられても自分じゃやらねぇよ」
「な、何で……」
どうせロクな答えでないとわかってはいるが、話の流れで聞いてみることにした。
司のヘーゼルの瞳がジッと私を映している。
薄くて形の良いその唇が、珍しく優しく緩やかな弧を描いて言葉を紡いだ。
「こうやってネクタイ結んでもらってる間は、結香を間近で見られるからな」
「んなっ……!?」
カァ、と急激に顔に熱が溜まっていくのを感じる。
ドク、ドク、ドク――と心臓が早鐘を打つ。
急にこの男は何を……!?
って、いやいや!
騙されるな私!!
どうせまたいつもみたく、からかってるだけだ。
ここで馬鹿みたいに真に受ければ、今後しばらくこのネタで弄られ続けることになる。
それだけは勘弁だ。
ふぅ……、と長く息を吐き、何とか平静を取り戻す。
そして、司の手に掴まれている自分の手をそっと逃がしてから、肩を竦めて言った。
「はいはい。冗談言ってないで行きますよ」
「あちゃ……」
いつまでもこんなやり取りをしていたら本当に遅刻してしまう。
私はこれ以上のちょっかいは受け付けないという意思表示も込めて、司が靴を履くのを待たずに玄関の扉を開けた。
「(今のは冗談じゃないんだけどなぁ……)」
背中で司が何か呟いた気がしたが、玄関扉のガチャッと開く音でよく聞こえなかった――――
◇◆◇
四月も終わりが見えてきたとはいえ、それでもまだ四月――と油断していてはいけない。
五月中旬には高校生になって初めてとなるテストがある。
そう、一学期中間定期考査というやつだ。
なぜこんなにも私がテストを意識しているか?
もちろん私が絵に描いた優等生だから――と、堂々と言うことが出来ればどれだけ良かったか。
決して私は不真面目ではない。
人並みに真面目な方だと自負している。
だが、重要なのは真面目か真面目じゃないかではない。
勝つか負けるか、である。
誰に?
決まっているじゃないか。
今、教室窓際列前から二番目の席に王子様の仮面を被って座り、数Ⅰの先生の説明に耳を傾けている風にしている腹黒御曹司にだ。
テストの点数で勝負をし、勝者は敗者に何でも一つ命令できる――これは、司と私が小学校の時からずっとやって来た恒例イベントのようなものだ。
今のところ私は司に一度だって勝てたことがない。
司は毎度百点満点近くを安定して叩き出すため、これまでの勝負では、互いに百点を取って引き分けたのが一番善戦した記録である。
そんな司を相手にして、勝ち目などほぼ皆無に等しい。
しかし、「どうせ勝てないから勝負しない!」なんて言うことは出来ない。
負けっぱなし、やられっぱなしで終われないのが、負けず嫌いな私の性分である。
今回こそ、絶対に勝ってやる。
そして、どんな命令でも一つ聞かせる権利で、もう私をからかったりイジワルしたりしないで大切に扱うよう言ってやる。
やってやるぞ、と私が自分自身を奮い立てていると――――
「――んじゃあ、この問題を……近衛」
「あっ、はい」
数Ⅰの先生から指名が掛かった。
私は短く返事をして席を立ち、黒板の前に出て行く。
問題は“x⁴-3x²-4を因数分解せよ”というものだ。
正直因数分解には自信がある。
今こうして習っているが、特に難しいとは感じない。
ここは教科書のやり方に沿って、まずはx⁴をA²と置き換える。
式は以下のように変形され…………
x⁴-3x²-4
=A²-3A-4
=(A+1)(A-4)
=(x²+1)(x²-4)
よし、出来た!
答えは(x²+1)(x²-4)だ!
「出来ました、先生」
解答に自信があるので、私は少し誇らしげに言う。
すると、先生は「ん~」と私の途中式を確認するようにしばらく唸って…………
「残念。惜しいな」
「あれっ?」
思わず間抜けな声を漏らしてしまった。
あれぇ、自信あったんだけどどこか計算ミスしたかなぁ?
そう思って再度確認してみるが、間違いが見付からない。
首を傾げていると、聞き慣れた声が「はい」と響いた。
振り返れば、司が爽やかな王子様スマイルを浮かべて挙手している。
「お、院瀬見。わかるか?」
「大丈夫です」
先生の確認にそう即答してから、司がこちらに歩いてくる。
手近な場所にあったチョークを右手に取ると、私の式の下にもう一行続きを書いた。
x⁴-3x²-4
=A²-3A-4
=(A+1)(A-4)
=(x²+1)(x²-4)
=(x²+1)(x+2)(x-2)
シャッ――! とカッコよく引かれるアンダーラインは、まさしく解答を表していた。
あっ、そうだ。
途中式が間違ってたんじゃなくて、もう一つ因数分解出来たんだ!
和と差の積は二乗の差ぁ~!!
「正解だ、院瀬見」
「ありがとうございます」
惜しいところまで解いたからこそ来る特有の悔しさに苛まれている私に、司が王子様スマイルで言ってきた。
「惜しかったね、
「は、ははは。流石だねぇ、
私達の関係は周囲には秘密。
だから交流のない振りをしなければいけないが……私にはわかる。
他人の目があるがゆえに王子様スマイルを作っているが、その仮面の下で勝ち誇ったようにニヤケているのが。
くっ……絶対今回のテストでは、勝ってやる!!