私が生まれた『近衛』の家は代々『院瀬見』に仕えており、それは現在になっても変わらない。
将来の夢なんて考え始めるよりずっと前から、名家である院瀬見家の跡取りとなる司の世話係として育てられてきた。
そのため、物心ついたときからすぐ傍にいた司は、私にとって仕えるべきご主人様であると同時に幼馴染でもあるのだ。
どこへ行くにもいつも一緒。
司の行く先が私の行く先。
司の住む場所が私の住む場所。
だから、私は何となく、ずっと地元の屋敷で司の世話係として生きていくのだと思っていた。
しかし、そんな予想は高校入学と同時に覆される。
司が自立と社会勉強のためという名目で、地元の屋敷を出て一人暮らしを始めることになり、世話係である私もそれに同行することになった。
いや一人暮らしじゃなかったんかい、と思わずツッコミを入れたくなるが、流石に大切な跡取りである司の傍に誰も置いておかないワケにはいかなかったらしい。
そんなこんなで紆余曲折あり、現在司と私は通う高校から電車で三駅離れた住宅街のマンションに住んでいる。
いくら主人と世話係とはいえ年頃の男女でもあるので、部屋は別々に用意されているが、それくらいの贅沢は『院瀬見』に掛かれば朝飯前。
というか、このマンション自体『院瀬見』が抱える会社の一つが管理しているものである。
ちなみにマンションは七階建て。
司の部屋が七〇一、私はその隣の七〇二だ。
私は今日も朝早く起きて手早く身支度を整えると、七〇二の部屋を出て、合鍵で七〇一に入る。
初めの頃はインターホンを押していたが、どうせ司が応答することはないのでもう諦めた。
玄関を潜り、少し廊下を進んだ先にあるリビングに入っても、他に人の気配がしない。
私はため息一つして、リビングから通じる司の部屋の扉の前に立った。
コンコンコン、と三回小気味よく硬い木製の物を叩く音を響かせる。
「司様、起きないと遅刻しますよ~?」
「…………」
「聞こえてますぁ~? はぁ、まったく……入りますからね~?」
ガチャ……と、私は司の部屋の扉を開けて中に入る。
案の定、いつもの如く目覚まし時計の置かれていないベッドの上に横たわっている司の姿を発見した。
すでに朝日は登っているというのに、その陽光を遮っているカーテンをシャッ! と勢いよく開け、換気のために窓も開放する。
すると、ベッドの上で包まっていた司が小さな唸り声と共に顔を顰めるが、まだ目蓋を閉ざしたままだ。
ああもう、めんどくさいなぁ。
いい加減自分で起きて欲しい……というか、自立出来るようになるために一人暮らし始めたんじゃなかったっけ?
と、そんな文句と疑問を本日二回目のため息に変えてから、少し大きめの声で起床を呼び掛ける。
「つ~か~さ~さ~まぁ~? 起きてくださ~い!」
「うぅん……」
「あぁ、もう……しょうがないなぁ……」
司がなかなか起きようとしないので、私はその布団を剥ぎ取ってやることに決めた。
窓から一歩、二歩、三歩――と、司の寝ているベッドに近付いていく。
そして、手を伸ばしたとき――――
「はいはい、起きましょうね――きゃっ!?」
布団目掛けて伸ばしていた私の手を、布団の下から滑るように出てきた司の手が掴み、そのまま引っ張ってきた。
突然のことに重心を崩した私は、呆気なくベッドに倒れ込んでしまう。
バサッ、と舞い上がる布団。
仰向けに倒れる私の身体。
その上に四つん這いになって覆い被さる司。
えっ、ちょ、どゆこと!?
寝てたじゃん。寝てた、よね?
それがどうして私の上に……!?
突然のことに頭が真っ白になる。
唯一理解出来るのは、今自分の鼓動がどうしようもなく早くなってしまっていることのみ。
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ――――
私を見下ろした司が悪戯っぽくニヤリと笑った。
「ククッ、寝てると思っただろ? ざんね~ん。結香を脅かすために眠ってるフリしてるだけでしたぁ~」
学校では紳士的で、誰に対しても分け隔てなく優しい王子様。
しかし、実際はこの通り。
……そう。
院瀬見司は王子様でも貴公子でも紳士でもない。
ことあるごとにこうやって私にイタズラを仕掛けてくる、腹黒御曹司。
私だけが知る、院瀬見司という男の素顔だ――――
◇◆◇
私は司が朝の支度を済ませているうちに、手早くトーストとスクランブルエッグ、サラダをワンプレートに乗せて朝食を用意した。
飲み物はこれを用意しないと司が機嫌を損ねる、私のハンドドリップコーヒー。
「まったく……ああいう心臓に悪いイタズラ止めてくれます?」
ワシャッ、と軽い音を立ててトーストに噛り付いた私は、そう言ってダイニングテーブルの対面に腰掛ける司を半目で睨んだ。
すると、司は真ん丸にした目を二、三度瞬かせてから当然のように答えてくる。
「え、嫌だけど?」
「っ、むっかぁ……!」
いやまぁ、予想していた返答ですけれども!?
それでもムカつくものはムカつくんですよ!
「何ですか。司様は私をからかわないと死ぬ病気か何かですか?」
「フッ……バレたか」
「んなワケないでしょう!? どんな奇病ですかまったく!」
何をニヒルに笑って「バレたか」だ。
もし本当にそんな病気があるならさっさと治療してもらってくれ。
院瀬見の財力をもってすればどんな高額な治療費でも払えるだろう。
「ってか、結香」
「ん、何ですか?」
「こっちで一人暮らし始めてからは『司』って呼べって言ってるだろ? 他に家の者がいるわけでもないし、様はいらん様は」
「あ、あぁ、はい……でも、まだ慣れなくて……」
幼少から主人である司のことは『司様』と呼ぶよう言われてきた。
そのため名前を呼ぶときはもう習慣的に敬称をつけてしまうのだが、学校では司が名家の御曹司であることや私がその世話係であることなどを隠している手前、その癖はあまりよろしくない。
「なら、慣れるまで呼べばいいだろ」
「そ、それは……」
こうやって簡単に言ってくるが、そんな単純な話じゃない。
今までずっと疑うこともせず当たり前のように『司様』と呼んでいたものを、急に呼び捨てで良いと言われても難しい。
というか、恥ずかしい!
理屈で言えば確かに敬称をつけようがつけまいが、下の名前で呼んでいることに変わりはない。
でも、人間の行動原理は全てが理屈じゃない。
なぜかよくわからないけど恥ずかしいのだ。
今まで『お兄ちゃん』と呼んでいた相手を急に名前で呼べと言われたら気恥ずかしいはずだ。
学校でずっと『先輩』と呼んで親しんでいた相手を名前呼びするとなると勇気がいるはずだ。
感覚的には、そんな感じ。
そんな私の気持ちを知りもしないでこの男は――と、言いたいところだが、違う。
この男はそれを承知の上で、気付いていないふりをし私をからかっているのだ。
その証拠に、チラリと表情を窺ってみれば、案の定意地悪な笑みを浮かべてコーヒーを味わっていた。
そして、極めつけには――――
「ほら、どうした? 呼んでみろよ?」
催促してきた。
こうなったら仕方ない。
覚悟を決めて、言うしかない。
大丈夫。
気恥ずかしさが半端ないが、たった三文字『つ』と『か』と『さ』を続けて口にすれば良いだけ。
名前と思うから変に意識するんだ。
今から言うのは『司』という名前じゃない。
ただ『つ』と『か』と『さ』を並べて言うだけ。
言うぞ、言うぞ、言うぞ…………!?
「つ……」
「つ?」
「……つとかとさっ!!」
「…………」
「…………」
「……は?」
やめてぇえええ!
あまりに『つ』と『か』と『さ』を並べるだけということを意識しすぎて、本当にそのまま言ってしまった。
流石の司も意味がわからないと言ったように、怪訝な表情をしてこちらを見ている。
これは、普通に名前を口にするより圧倒的に恥ずかしい。
「はいっ、この話お終いです! 早く食べないと遅刻しますよ!」
居たたまれなくなった私は、すぐにこの場から消え去りたいという思いから慌てて残りの朝食を喉に流し込んで席を立ち、キッチンへ向かったのだった――――