しばらく歩いても道が川からはなれないと判断した私は、「威霊の峡間径」から直角に離れて、道の脇の山に登る。
しかし地面はぬかるみ、足元は悪く、すぐ目の前も全く見えないこの状態で山登りは、中々にこたえた。
“道からはみ出ていいの?”
「少し離れるくらいなら、旅に支障はないそうです。遭難しなければ、の話ですが────」
しばらく山を登ると、通り雨だったのか、少し先程より収まった気がする。
しかし背後を見やると、川が増水し先程まで私が歩いていた道は既に激しい渦の底だった。
背後から轟々と言う音が僅かに聞こえてくる。
もう少し山に逃げるのが遅ければ、きっと手遅れだっただろう。
“うわ、危なかったね……”
「えぇ……これが通り雨なら、止むまでこのままここで待機しましょう。
あまり豪雨の中動くのは得策ではないでしょうし……」
幸いにも、先程より雨の量は落ち着いた気がする。
しかしまだ景色は晴れず、眼下の増水した川もその実態は完全に伺うことができない。
多分ここまで増水してくることはないだろうけれど、心細さや不安は募るばかりだ。
“この雨で、道が分からなくなったりしないかな……”
「さぁ、有り得るかもしれませんね」
「威霊の峡間径」は長い年月、山道が魔力の通り道になることで生まれた自然の産物だ。
それが同じ大自然にかき消された、ということも有り得るだろう。
こうなってしまえば、次に道として認識できるのは何年後か、何十年後か、何百年後か────
「ダメですね、考えても仕方ないです。遭難したときは2人で仲良く野垂れ死にましょうか」
“やだね、そういう心中はお断りだよ。そばにいて欲しかったら最後まで死ぬ気であがくことだね”
ツレない相棒だ。でも私とて、ただ死ぬつもりはない。
絶対に帰るんだ、こうなってしまった以上そう心に覚悟をきめる。
「にしてもこの雨、また別の意味で危険そうですね。
どこか雨宿りできる洞窟が近くにあればいいんですけど」
最悪ここにテントを張る手もあるけれど、山にこんな状態でキャンプは、少し遠慮したい。
なにせ、谷には川の増水と言う危険があったように、山には山の危険があるのだ。
例えば危険な生き物や、遭難や、こんな雨の時に起こる────
「うわっ」
“どうしたの?”
「上から小石が降ってきました……」
落石、というほどではないけれど、パラパラとした小石が足元を掠めていった。
当たっていてもかすり傷程度ですんだかもしれないが、小石が落ちるということはここの地盤が緩くなっているのだ。
そして────
“エリー、この音なんだろ”
「この音、山鳴りですかね────」
低いゴゴゴという音が、山全体から軋むように聞こえてくる。
もしかして──いや、これだけ一瞬の間にこの降水量、十分に有り得る話だろう。
それは、どこかの山のどこかの出来事ではない。
「これって……」
大昔に番組で見たことがある。急な落石、山鳴りに近くの山の土砂崩れ。すべて地滑りの兆候だ。
「向こうの山が崩れたみたいです。地盤の状態が近いここも崩れるかもしれません、よね……」
大自然を敵に回す恐ろしさに、鳥肌が立った。
「逃げましょう……じっとしてても、これ死にます……」
※ ※ ※ ※ ※
“早く早く!!”
「ごめんなさい、そんなスピード出ません……」
山道をずぶ濡れのシューズで、なるべく早く。相当私の足には負担が来ていた。
そして一歩進むたびに、この山に起きている大規模な変化の兆候が、目に飛び込んでくる。
斜面に亀裂、地下からの泥水の噴出、そして────
“川の水が、減ってる?? なんで、まだ雨が降ってるのに……”
「────っ、まさか……」
谷に流れていた川の水量が減っている、まだ降り続く雨の中でも急激になくなった濁流は、嫌な予感の前兆でしかない。
少なくとも、私が知ってる限りこれは────
“エリー、なんだろうこの匂い……山火事?”
「何か焼ける匂い、多分上流で岩同士がぶつかってるんです。
既に上流では山が崩壊して、川の水を塞き止めてるんだと思います」
“そんなことあるの……?”
「えぇ、大規模な土石流が、そのうち起きるかもしれません……」
山崩れで崩壊した岩や土が川を下って、上流から一気に押し寄せるのだ。
そのうち川の周りは、軒並み土砂や岩に飲み込まれることになるだろう。
“おっ、おおおお?”
「来ましたね……」
ついに上流の方から、大きな地響きと共に濁流が押し寄せ、土砂や岩が一気にくだってきた。
さすがにここまでは来ないだろうが、この山に別の影響が出る可能性は十分にある。
「きーさん、ここまで上がれば濁流は来ないと思います。でも────」
“土砂崩れが、心配なんだろ”
「えぇ、特にこの山は多く兆候が出てるので、かなり危ないと思います。せめて向こうの山に逃げたいです」
一昨日、きーさんとは離れないと約束したばかりだった。
でも、自然が相手ではきーさんがいたところでどうにもならない。
“言ってくれるね……”
「えぇ、でも私と“魔力共有”してるきーさんなら、上から私に状況を伝えることは、出来ますよね」
“──出来るよ”
きーさんは、私な言いたいことを大方察したようだった。しかし私は敢えて、言葉に出す。
「きーさん、私のために上から状況を伝えてくれませんか。
いつ崩壊するか分からない地面、先も分からない山歩き、ガイドがいれば心強いです」
“ガイド……”
きーさんはしばらく黙っていた、この間のボイコットからまだ2日。
こんなお願いを吹っ掛けるのはどうかと自分でも思う。
でも、これが私の生き残る最善の策のはずだ。
もちろんきーさんが空を飛べば、風に煽られる危険性、雷に打たれる危険性、その他諸々伴う危険性を、私は理解した上で頼んでいる。
必ず帰るという強い覚悟、自分を本気で心配してくれる相棒の存在────
それらを引っくるめて、今私が出来る最善策だ。
「お願いしても、いい……ですか?」
“────ホントに……”
私の感情は、共有した感覚できーさんに伝わっているはずだ。
私が本気で彼を頼っていることも、分かってくれていると思う。だから────
“分かってるよ、僕は相談なく危険に突っ込んでくのがいやなだけなんだから。
納得すればどんな危険なことでも協力するさ、報酬次第でね”
「きーさん……」
なんだ報酬が必要なのか、面倒くさいな。
“なにさ”
「なんでもないッス……ところで時間がないんですが」
“分かった、空からのナビゲートは任せな。必ず生きて、街へ戻ろう”
そう言い残すと、きーさんはまだ雨の止まない空へ上昇していった。
〈この先暫くは、同じような獣道だよ。ぬかるんでるから気を付けて、足を滑らしたら川まで転げ落ちるよ〉
きーさんの声のような感情が、直接頭のなかに響いてきた。
どうやらりゅーさんとアデク隊長が使っていた“魔力共有”でのテレパシーは、ここを旅する間に自然と身に付けられたらしい。
〈ありがとうございます、このまま進みますね〉
訳も分からない山道を闇雲に進むより、ナビゲートがあるのはとても安心だった。
手探りだった山道の移動も、スピードが上がる。
山の崩壊の前に、移動することが出来るかもしれない。
〈あっ、待ってエリー止まって!〉
急な信号に慌てて歩みを止めると、目の前を自分ほどの大きさの岩が転がり落ちていった。
もう少し前にいたら、きっと粉々になっていただろう。おそろしや────
〈あ、ありがとうございました……〉
〈いいから進みな、まだ次の山は先だよ〉
心強い声に促され、前へ前へ。
私たち2人なら、必ずこの試練も────
〈っ!? エリー、急いで!! 山の上の方が滑り始めてる!!〉
上を見やると、頂上付近から土煙が立ち始めていた。まずい、ついに崩壊が始まったのだ。
土砂崩れが、来る────!!