山奥の秘湯、人を寄せ付けぬ山紫明水、いわゆる「地獄地帯」というヤツだ。
たどり着いたそこには、絶景の中にポツンと造られた、小さな湯船があった。
と言っても、川の中で丁度いい温度の場所に石を積んで囲っただけの簡単な造りだけれど、ゆっくりと浸かる分には十分な広さだ。
むかし、家族で温泉の旅行に行ったことがある。そのときの感覚や光景が、目の前に浮かぶ。
場所は遠く離れていても、あの時の気持ちは私の中で忘れがたいものだ。
“今は思い出とかじゃなく、早く入っちゃおうよ”
「身も蓋もない……」
でもそういえば、北の空に僅かに雲がかかっている。
雨が降るかもしれないとしたら、きーさんのいう通り早めに入ってしまった方がいいだろう。
“あそこに看板があるよ”
「え? あ、ホントだ」
石で囲われた露天風呂のすぐ近くに、ぽつんと立てられた看板を見つけた。
そしてすぐとなりには、石を切り出して作られた大きな板が。
────ここは「威霊温泉」、儀式中の方はご自由にどうぞ────
「あー、きっとあそこに服や荷物をおけるんですよ。そういえば、昔はここも人がよく通ったんでしたっけ」
木製の板を使うより、石で作ったものなら腐ることも劣化することもない。
しかし、看板自体はかなりボロボロだ。管理人さんの言うその昔というのもどれくらい前になるのだろう。
少なくとも、作られて10年は経っている感じだ。
「まぁ、使えるものはありがたく、ですね」
私は周りを確認すると、石板の中に上着を脱いでリュックの上に置く。そしてまた周りを確認────
“え、何してるの”
「いや、今更ながら周りに誰かいないか気になってしまって……」
“まぁ、端から見たら露出癖のある人だもんね”
その言葉で、私はまた周りを確認した。
だ、誰もいないよな────
“誰もいやしないよ。いたとして大自然の中素っ裸の女の子が歩いてるなんて、見て見ぬふりするだろ。多分”
「それが嫌だから周りを確認してるんじゃないですか」
“あー、もーじれったいな。入らないのね?”
「は、入ります」
素早く服を脱いで、縦に置いたリュックの上に重ねる。
すると、先ほどまで気にならなかった周りの空気が、一瞬にして極寒の地へと変わった気がした。
「さ、寒っ……」
“まぁ、冬場にお外で全裸になれば、そりゃそうなるよね”
「早く入らないと凍え死んでしまう……」
タオル一枚持った私は、震えながら小走りで川のほとりへ向かう。
しかし湯気たつ川に近づくと、それだけで熱気と匂いが充満してかなり暖かかった。
恐る恐る足先をつけてみると、じんわりとお湯の暖かみが趾から広がってくる。
そしてお湯との温度差にたまらなくなった私は、すぐに股の部分まで足をいれた。
「ぅんっ────少し、熱いですね」
“そうだね、僕はいいや”
嫌がるきーさんを尻目に、ゆっくりと全身を湯につけてゆく。
深さは肩まで浸かって丁度いい高さ、ゆっくりと足も広げられるので、窮屈な思いをすることもない。
こうして広いお風呂にゆっくりと入るのは何日ぶりだろう、全身の疲れが染み入る暖かさに溶けてゆくのが、とても気持ちいい。
それに周りを見渡すと雄大な冬の景色が広がっていて、一人きりの温泉というのも中々に清々しかった。
「きーさん、タオルで身体だけでも拭きましょうよ」
“えー……”
「ほら、リュックのところにあるんで取ってください」
嫌そうな顔をしながらも、きーさんはとりあえずといった感じで石板の方に戻ると、リュックから布を一枚咥えてきた。
「いや、それ私のパンツ」
“うえっ、ホントだ……”
気持ち悪そうな顔をして、きーさんはその場に私の下着を吐き捨てた。
人の下着勝手に持ってきてあんまりだ。
「ちょっとっ」
“ごめんごめん、えっとタオルだよね”
「それよりまず私のパンツ回収してくださいよ。
風で舞って行方不明になったどうするんですか」
一応管理人さんにもらった替えはあるけれど、余計に持ってるわけじゃない。
それに、大自然の中私のパンツが長旅をするのは、流石に嫌だった。
“んもぅ、わがままだなぁ”
「ただの正当な要求ですよ、まったく」
ため息をつくと、そのまま口まで体を沈めてみる。
少し熱めの温度が全身に広がって、ここまでの疲れを癒してくれる。
思えば昨日今日とずっと歩きっぱなしで、体は相当ヘトヘトだった。
それに、シカの精霊に襲われたり、訳の分からない“ねばねば”に遭遇したりもした。
もちろんこの霊験あらたかな、「威霊の峡間径」という場所の性質もあるのだろうけれど、少なくとも街にいたらこんなことにはならないだろう。だから嫌いなんだ、レジャーは。
“でも、温泉入ってリラックスしてるのが分かるよ”
今度はちゃんと正しいタオルを持ってきたきーさん。
熱いお湯にそれをつけて、丁寧に体を拭いてやる。
頻繁に毛繕いしているせいかあまり汚れてはいないけれど、汚いまま肩に乗られてはたまったもんじゃない。
“それにしても、変わった匂いだよね”
「えぇ、温泉地特有の、というやつですか」
辺りに充満する薄い硫黄の匂いは、温泉が湧いたときに空気中に出るガスが原因だそうだ。
中には危険な場所もあるけれど、囲いがしてあるところなら入っても問題ないと管理人さんは言っていた。
「まぁ、でも長居は無用ですし早めに出ます」
“もういいの?”
「えぇ、あまり吸い込んでいいものではないみたいですし。それに……」
どうも、風上の方の空が先程よりも曇ってきているようだ。
よく見れば下の方は雨が降っているようだし、いずれここも時期に降りだすだろう。
雨で風邪を引いてもたまらないし、とても惜しいが私の地獄巡りはここまでのようだ。
「少し急ぎましょう、何だか────」
“うん、あの雲やな予感がするね”
※ ※ ※ ※ ※
集中豪雨と言うやつだろうか、山の天気は変わりやすいと言っても限度がある。
突然降りだしたものすごい雨の量は、スコールの数倍とでも言うべきか。
まるで滝のように体を打ち、レインコートを着ても隙間から入る水が私の体を濡らして行く。
さっきお風呂に入ったばかりなのに、今度は冷たい水で濡れた私の体は急激に冷えて、少し鼻水まで出てきた。寒い────
「本当に──目の前がなにも見えませんね……」
“さっきの場所から動かない方がよかったんじゃないの?”
レインコートの胸に入ったきーさんが、顔だけだして苦しそうに叫ぶ。
声が届けば私には聞こえるのだけれど、そうでもしないと自分の声さえかき消されてしまうのだ。
「いや、あんな川のほとりにいたら洪水で流されてしまいますって」
実際、道に戻って少し進んだ私の耳に聞こえてきたのは、轟々と鳴り響く川の音だった。
まだ降り始めて一時間も経たないはずだけれど、道に沿って流れる川は先程よりもさらに勢いを増してきてるようだった。
温泉のところに留まっていたら、とっくに流されていただろう。
“よくあることなのかな?”
「よくあること──ではないはずです」
先程の温泉の近くの看板や積まれた石は、年月を感じはしたが、形自体はまだ保っていた。
しかし、こんな規模の災害が頻繁に起きていたら、服を置くための石板はともかく、看板自体はとっくになくなってるはずだ。
少なくとも、看板が風化する10年間では、起きていなかった災害だろう。
そもそも、あんな看板を立てられるような立地だったのだ。
今までこんな災害なんか、起きたことがない可能性だってある。
「早く、避難できるところを探しましょう……」
そうしているうちにも、すぐ近くの川の流れも見えないほど、雨がさらにひどくなる。
そのうち、この道も飲み込まれるのではないかと言うほど、ほど激しく────