しばらく歩くと、段々と視界が開け、左右が崖ではなく山に変わってきた。
それでも足場は岩だらけでウンザリだけれど、閉塞感がないので少しだけ安心できる。
しかし、相棒との関係はうまくいっているとはいえない。
岩に擬態したシカに食べられそうになってからしばらく、私たちの間に気まずい雰囲気が流れていた。
とっさに動けず、危険な目に合ったのを気にしている。きーさんからも、そう心の声が伝わってくる。
私は私で死に目に合ってヘトヘトで、これ以上動きたくなかった。
自然と、お互いの会話が減るのも仕方がない。
“ねぇエリー”
「何ですか……」
“あれなんだろ”
日が少し傾きかけた頃、きーさんが、少し先にある地面の裂け目を腕で示していた。どうやら岩状のところが、割れてできた場所のようだ。
私では感じない、匂いや音みたいなのを、敏感に感じているらしい。
「何かあったんですか?」
“なんか、やな匂いがする”
そういうときーさんは、軽やかに岩の影の方を覗きに行ってしまった。
「ちょ、あきーさん──もーー……」
私も仕方がないので、追いかけて一緒に覗き込む。
岩の裂け目は、思ったより深く大きく、降りるとしたらかなり苦労しそうだ。
中は崖の時と同じようにキラキラした粉がこびりついてよく見えたけれど、おかげで私は目を疑った。
「あれって──さっきのシカですか……?」
“じゃないのかな”
私たちをさっき襲った、岩に擬態するシカが、尾の近くまで裂けた大口を開けて岩の下で動かなくなっていた。
そして周りには、大量の血がドクドクと流れ出ている。
“落とされたんだ……鳥の中には、一回高いところから獲物を落として、殺してから食べるヤツがいる。森で大きな鷲がやってるのを昔見た……”
「でもここじゃ、あの鳥は入れないですもんね。
あそこに落としてから、食べれないと気づいたんでしょうか」
そう言ってからギョットして周りを見回したけれど、怪鳥の姿はなかった。
どうやら既に諦めたらしい、とりあえずは一安心だ。
“自業自得だね”
「まぁ、はい……仕方のないことではありますよ」
どうやらまだ息はあるようだけれど、ぐったりと動かない。
いずれ死ぬのも、時間の問題だろう。
「さ、行きましょう。これ以上見たいものじゃ────」
“待って!! あれ、なんだろう……”
きーさんが再び、岩の間を指し示す。
私も少しうんざりしたけれど、もう一度岩の中を覗き込んで、中を確認する。
今度はそこに、シカとは違った
『え、なんだあれ────』
思わず素が出てしまうほど、訳が分からなかった。
動かなくなったシカのとなりにいたのは、黒光りする人の形をした、
いや、人の形といっても、決定的にちがう。
大きさはせいぜい私の四半分以下で、とても小さい。
そして男性の筋肉を再現したかのような見た目のクセに、股間や手足には、全く凹凸がなかった。
真っ黒な、ヒト────?
“あれ、絶対ヤバイよね……”
「────えぇ……」
普段はあまり役に立たない私の本能が、この時だけは、一目散に逃げろと警鐘を鳴らしている。
でも、身体が動かない。恐怖ともまたちがった、何か引き付けられるような感覚で、私はそのバケモノを見ていた。
“ノデメラフダラケテシノワブラスカ”
「うわ……」
黒いバケモノは、常にブツブツブツブツ。
言っていることは分かっても意味が理解できない。
“な、何だって……?”
「分かりません……」
“え? 君が??”
私でも聞き取れない、全ての生物と会話が出きると言う【コネクト・ハート】の特権が、完全に通用しなかった。
その異常さに、常に私と一緒にいたきーさんも驚く。
“君の固有能力は、生き物と会話することじゃないの?? それができなくてどうするのさ……!”
「そんなこと言われても、出来ないものは出来な──あっ」
黒いバケモノが、静かにヒタヒタと、動き出した。
そしてシカの血溜まりにも臆することなく進んで行く。
“ママジャンパニキーシャンドルマッツィモフィーラ……”
そして、シカの精霊をビタッと抱きかかえるように、張り付く。
すると黒光りするバケモノは、全身が“ねばねば”と溶けていき、人の形から黒い“ねばねば”の何かへと姿を変えた。
きーさんが変身するときに似ているけれど、それよりもっと、どす黒くて深いような────
“あ、あんなのと同じにしないで……”
その原型を保たなくなった“ねばねば”が、シカに張り付いたままグワングワンと波打つ。
すると、シカの精霊の全身が、ガクガクと痙攣を始めた。
しかし“ねばねば”は、なおもシカに張り付きブルブルと身体を震わせる。
そしてついに、シカの精霊の方が、動かなくなった。
“あれって……”
「きゅ、吸収してるん、です、よね……?」
ぐったりと動かなくなったシカの精霊、その魔力を“ねばねば”が取り込んでいく。
触れたところから、どんどん溶けて“ねばねば”の一部になっている────
“きーさん……いや、エリー、これって……”
「はい、でも……」
マズイ、今まで私が見たどんな光景よりマズイ。ここにいては、絶対にいけない。
しかし逃げなきゃ──と思っても、身体が動かない。
そしてついに、シカの全身が完全に吸収され、跡には血溜まりだけがその場に残っていた。
“ねばねば”は、シカを喰い終わると、何事もなかったかのように、また人の姿に戻った。
そして、ゆっくり顔を上げ────
「“あっ……”」
私たちと目が合った。正確には、ポッカリと空洞のようにくりぬかれただけの2つの空洞が、私たちを見つめていた。
不気味で吸い込まれそうな両目は、こんなに明るいはずの岩の中でも奥が見えないほど、どす黒く濁って、先が見えない。
そして、ゆっくりと、その両目が形を変えた。
同じように、空洞の口元も、三日月型に歪む。
それはまるで、人に例えると。
“笑っ────────“
ていた。笑っていた。笑っていた。笑って笑って笑って笑って笑って笑笑笑笑笑笑笑笑────
「っ! ──きーさんこれ以上はダメです!」
出し抜けに全身の力が戻ったように、私の身体が動いた。
今度は間違いなく自分の身体だ。きーさんを小脇に抱え、後ろも振り向かず岩の裂け目から一目散に逃げ出す。
“何あれ、キモ!!”
「絶対私たちを見て笑ってました、正直シカより相手にしたくないですっ……」
関わってはいけない、触れてはいけない、見てはいけない、知ってはいけない。
世の中にあるどんな狂暴な怪物より、いまのあの“ねばねば”は、恐ろしかった。
少なくとも、今の私たちには────
「あ、あれって……」
“あれだ、丁度いい! いや、もう限界……!!”
視界の向こうに、岩場が途切れて森林が道の左右に広がるエリアが見えた。
少し道から外れてしまうけれど、あそこなら身を隠せそうだ。
あまり走ってはいないので、本当ならもう少し逃げた方がいいんだろう。
でもあいにく普段より精神力を使っていた僕たちは、心も身体も限界だった。
“も、もうダメです……”
「な、何だよあれ……」
森林に身を隠して、僕たちは後ろを伺った。
どうやら、あの“ねばねば”は追いかけてきてはいないようだけど────あれ?