「威霊の峡間径」に踏み出したはいいものの、そこは私が知る普通の「谷」とは全く違った。
切り立った崖と崖に挟まれたその一本道は、自然界のそれで言えば緩やかな河川に何万年もの時間をかけて削られた、いわゆる「渓谷」というものに近い。
しかし、ここには川は流れていないし、そもそも水溜まり一つさえ見当たらない。
なんでも水の代わりに、目には見えない「魔力」が充満して、川のない渓谷を削ってきたらしい。
なんとなく、周りの空気が普段吸っているものと違う気がする。
“空気が澄んでて美味しいねぇ”
「そうですか? 少し息苦しい気がしますけど」
どうやら、精霊と人間の認識は少し違う──というより、二本の足でしっかりと歩いてる私に対して頭の上でなにもしてないきーさんは、そりゃ吸う空気も美味しいだろう。腹立つなぁ。
でも、本来暗いはずの渓谷は、意外にも歩くのに困るほど暗黒の中ではなかった。
道の脇に生えた草木や岩の一部ががピカピカと白色に輝いていて、暗いはずの「谷」だが足元が明るいので、案外動けるのだ。
近寄ってそのピカピカを触ってみたけれど、その光は触れた感触もなくく、細かい砂のようにサラサラと宙に舞って消えてしまった。
“その光から、特に強い魔力を感じる”
「あーなるほど。精霊保護区で集まった魔力の一部が、こうやって色んなところにこびりついてるんですよ」
あとは、精霊の数が多い。管理人さんも言っていたことだけれど、ここは精霊たちにとって命の源とも言える魔力が芳醇だ。
人間で言えば温泉のようなところだ、精霊にとっても居心地がいいのだろう。
しばらく歩いていると、私の背中も飽きたのか、きーさんはその辺で遊び始めてしまった。
私は苦労して徒歩で歩いているのに、少し離れると猫の軽い身のこなしですぐに追い付いてくる。なんだか腹立つ。
「あ、きーさんほらダメですよ、虫っぽい精霊いじめたら」
“本能なんだから仕方ないでしょ”
所詮は猫か、きーさんは小さな生き物を見つけると、ついついいじめてしまう。
なんだか猫だとは分かっていても、その光景は弱いものいじめしてるみたいであんまり好きではなかった。
「てか止めてくださいよ、私も何となくやりたくなっちゃうじゃないですか」
“エリーにも猫型精霊の本能が?”
「違いますって、ここに入ってから、“魔力共有”のせいできーさんの気持ちが入ってくるんですよ」
「谷」に足を踏み入れてから、その傾向はかなり大きなものになっていた。
少しでも興奮すると、自分がきーさんなのかエリアルなのか分からなくなりそうだ。
「だから、虫追いかけるのも程々に──あれ、その精霊なんですか?」
“ネズミの精霊だよ、やっぱりついつい追いかけたくなっちゃうね”
そういって、きーさんはネズミっぽい「何か」を追いかけている。
いや、見た目はネズミっぽいけれど、明らかにそれは────
「きーさんっ!」
“むぐっ!?”
私はきーさんに飛び付くと、その場を転がって急いで間合いをとる。
岩の上を転がる痛みはまぁまぁだったけれど、それより問題は────
“なにするのさ!!”
「あれはネズミじゃないです、声がしない……」
“あ、ホントだ……”
私が焦ったときに五感が繋がったのか、きーさんもあのネズミの異常に気付く。
振り返ってみると、近くの岩が音も立てずに動き出した。
「シカ……?」
“シカだね……”
岩に擬態した大きなシカだった、
“何年ぶりの獲物だと思っている、人間の貴様が容易く我の神聖な
先程のネズミのような何かは、スルスルとそのシカの方に飛んでいき、口元に入っていった。
動くときに細い糸が見えた、シカの操る疑似餌だったのか────
「あ、あげませんよ、私のもふもふは。儀式って、結局食べるつもりでしょう……」
“僕が毛玉と同じ価値しかないのはよーく分かった”
せっかく気の効いた返しをしたつもりなのに、きーさんはそれにも不満だったようだ。
なに、素直に好きだっていえばいいの?
“なんにせよ、ここで貴様らを逃すことはない……”
「ひやっ!?」
岩に期待したシカが、角を突きつけて迫ってくる。
危うく串刺しの刑になるところを、ギリギリでかわす。
「や、止めてくださいよ、もう……!!」
“バぁカめ! 獲物を我がそう容易く逃がすと思うなよっ!”
ならば、私たちにとれる手段はひとつだろう。
「きーさん、にげ」“よう!”
戦ってもたぶん勝てない!
勝ち目のない僕たちは、一目散にその場から逃げだす。
「って、あれ? 飛べない──」
“それ僕の体の事だから! 勝手に頭待ってかないでよ!!”
「あ、ホントだ」
焦って一瞬きーさんと意識が混ざりかけた。しかし飛べないと気づいたので、岩だらけの谷を脱兎のごとく逃げる。
後ろからは、先程のシカがまだ追いかけてきている気配がした。
“まてぇ!”
“来んな来んな来んな来んな!!”
まずい、このままじゃ追い付かれる。そういえばシカは岩の多い山や崖をテリトリーとしてるのだ。
それが精霊とて変わらない、私ごときが足でかなうはずもないか。なら戦うのもやむなし────
「きーさん、儀式の生け贄に美味しくされる前に、少しだけ頑張りますよ! 槍に!」
“────────だから早く槍になって……ぬわぁぁぁっ違う!”
今度はきーさんが私の感覚を持っていってしまったようだ。
一瞬遅れた判断は、迫ったシカに隙を見せるには十分だった。
“まずはデカイ方だ!”
「あっ────」
岩のように固い角を下からぶつけられ、そのまま近くの岩に叩きつけられる。
前後から広がる痛みに、一瞬意識が飛びかけた。
「かはっ────」
“エリー!”
「ば、“バフ・プロテクト”──氷で守りました……」
しかし串刺しは免れても、衝撃が和らぐわけではない。
痛む体をギシギシと動かすと、シカは満足げにこちらに闊歩してきた。
“生け捕り、丸のみ、踊り食い、一番うまい食いかただぁ……”
「お、美味しくないですよ……」
“それはぁ、我が決めることだ……”
シカが、グバッと口を開ける。いや口を
シカの口角が割れ、開き、中から無数の触手とギョロギョロとした目、細かく不揃いな何百もの牙に、イヤに甘ったるい匂い────
「うわ、もしかして、おたくシカじゃない────?」
“いただきまぁす”
そのシカだった化け物は起き上がろうとする私に、ネズミのような疑似餌の付いた細い舌を、口の中心にぽっかりと空いた穴から伸ばしてきた。
絡めとっておいしくいただくつもりだ────
「それは、いただけませんっ。“ティール・シ────あっ」
氷を指先から打ち出そうとしてから、違和感に気づいてその指を止める。
いや、違和感と言うか、きーさんの思考────?
“ななな、なにをしたぁぁぁっ!”
「────────いえ、なにも……」
私を食べようとしていたシカが、直前で急に宙に浮かんだ。
唖然とする私にシカは叫ぶが、それは私でもきーさんのせいでもない。
「怪鳥……」
巨大な鳥の精霊が、シカを背後から持ち上げていたのだ。
鳥はその鋭い鉤爪でシカの尻を突き刺さるほど強く持つと、そのまま上空へ舞い上がって行く。
“後ろから覗いてて、見えたんだ。すごいよね……”
「あんな大きなシカをいとも簡単に……」
シカはバタバタと暴れるが、それでも怪鳥はシカを離さない。
あんなに深々と爪が刺さっていては、逃げられないだろう。
“ぐそおおおおぉっ!”
シカの断末魔が、谷に響き渡る。
「わ、私たちも逃げなきゃですね……」