「そんな……そんなっ!!」
慌てて手をやると、そこにはべっとりと自分の鮮血がこびりついていた。
そこでようやく麻痺した神経が感覚を取り戻し、貫くような痛みがジワジワと脳を支配し始める。
「あ……あぁぁぁぁ!! ぐっ!!」
唇を噛んで叫び出しそうになる口元を押さえ込む。
違う、自分がするべきことは今ここで叫ぶことじゃないし、今大切なのは左目が見えないことじゃない!!
ここで自分が何とかしなければ、沢山の人の命や生活が失われてしまうかもしれないって事だ!
「べ、ベティさん────」
両手で左目に痛み止めと止血の魔法を流し込みながら、それでも追いつかず痛む身体で、一緒に飛ばされたはずのベティさんを探す。
見える右目で何とか周りを見渡すと、ベティさんは自分のすぐ近くに倒れ込んでいた。
「っ────────」
「ベティさん大丈夫なの!?」
反射的に聞いてしまったけど、大丈夫ではないことは一目瞭然だった。
全身を強く打って、ところどころ傷が見える。
それに右足は複雑に折れ曲がって、完全に骨折していた。
ダメだ、今の自分のこの状態じゃ、回復させようにも手の施しようがない────
「とりあえず逃げましょう……」
ムカデは────まだ自分達からは遠く離れた場所にいる。
今こちらに向かって来られてはどうしようがないが、この距離なら多少猶予はあるはずだ。
「待ってて、今、安全なところに運ぶわ」
見渡すと、壁の隅の方に古びた扉が見えた。
恐らく以前は裏口として使われていた物だろう。
「ごめ────ん……」
「いいから、ムカデが来る前にあそこから外に出ましょう。
レベッカさんには悪いけれど、今は逃げなきゃどうにもならないわ」
そう説得してベティさんの腕を肩にまわし、何とか立ち上がるように促す。
そして2人で扉に向かい、ドアノブを回したが、扉は開かなかった。
「うそ────」
もちろん錠など付いていないことは、開けようとする前に確認している。
ただ、長い間扉は使われていなかったため、この廃工場と同じように、扉そのものも老朽化で開かなくなってしまったのだろう。
こんな時に致命的この上ない。
「待って、今魔法で壊すわ。少し離れるわよ」
「う、うわ────ムカデが!! こっちに向かってきてる!!」
見ると、あの巨体がしつこくまたこちらに突進してきていた。
弱っている者を狙うのかなんなのか、しつこいことこの上ない。
「────っ、ダメ!! 扉の破壊が間に合わない!! その前に追いつかれるわ!!」
ダメだ、このにっちもさっちもいかない状況で逃げられないなんて絶望的だ。
したらばこのまま、命尽きるしか自分に残された道はないのか────
ダメだ、もう回避できる距離じゃ────
「ダメッ!!」
刹那、自分と大ムカデの間に割って入った影があった。
「れ、レベッカさん!!」
両手を広げ、迫り来る巨体を前に、自分達2人を守ろうとしてくれている。
でも、バリアでも止められるか分からない相手に、たった一人の少女で太刀打ちできるはずがない。
もう迫る黒光りの猛進は止まらない、それでもレベッカさんだけでも無事でいてほしかったのに────
「レベッカさん逃げて!!」
「ダメ! そんなことしないし、したくない!! 絶対皆で生きて帰るんだからアアァァァ!!!」
彼女の声が工場内にこだまする。
瞬間、ふ、と────
「え?」
全身が痺れる、覇気のようなその声が響いた瞬間、ふ、と目の前のすべてが一瞬スローになったように感じた。
まるで、透き通った水の中のように世界がゆっくりで、淡い表情を見せる。
物の動きも、光りの瞬きも、時の流れさえ、止まりかけの時計のように沈んでゆく世界────
「これって────」
直感的に、この淡い世界がレベッカさんを中心に広がっていることに気付く。
それが証拠に、ムカデや自分達が水の中にいるように動きが鈍くなっている中で、レベッカさんの髪だけが青く光り、逆立っていた。
その光りは、徐々に光度を増し、ついには閃光と呼べるまでに鋭くなって────
「レベッカ────」
「ッ────────!?」
ベティさんが声を掛けようとすると、レベッカさんが驚いたように顔を上げる。
すると、世界が何かから解き放たれたかのように元の様子に戻った。
いや、違う────ムカデの突進
「止まっ────えっ……?」
いや、止まったわけではなかった────
ムカデの体、あの巨大な図体が、ゆっくりと、ゆっくりと、
「うそ……」
そしてゴンッ────ゴンッ────という2回の音。
心臓がその音の震動で揺れたのと同時に、自分の視力の残る右目は、確かに捉えた。
“ノースコル・デス・センディピード”の巨大な体が突然天井まで浮き上がり、そのまま何か暴力的な力で床に叩きつけられるのを────
「な、なんなんだあれ!?」
「もしかしてあれ────────わっ!」
そして、景色より数秒遅れてくる埃や鉄の破片────
「ば、“バリア”っ!」
「っ────────」
レベッカさんの前にバリアを張り、飛んでくるガラクタを回避する。
そして一瞬の嵐が止むとそこには、自分達3人と静寂、そして動揺の波だけが残った。
静寂が、いろいろな意味で痛い────
「う、嘘だろう……」
「─────────今のは、なに???」
揺れた空間の中心には、自分の目の前でおきた事が、いまだ理解できていないレベッカさんが呆然と立ち尽くしている。
全部でたった数秒のことだった────
しかし残ったのは、体が2つに千切られ動かなくなったムカデの姿────
「セ、セルマさん、今のって……私────?」
「もしかして、能力────なのかしら……?」
断言は出来ないが、今の目の前で起きたことを説明できるのは、自分の知識の中ではそれだけだった。
ある日突然、きっかけもランダムに、持ち主の元に零れ落とされる正体不明の力────
その一つが、今目の前で開花したんだ────
「って、レベッカさん!! このまま今の衝撃でじゃ天井が崩れそう!!
早く脱出しましょう!! 向こうに裏口があるわっ!!」
※ ※ ※ ※ ※
先程の裏口を壊して、3人でなんとか廃工場から離れると、直後、見事なまでに廃工場は崩壊していった。
「なんか、大きな建物が崩壊するのって見ててすっきりするわね」
「そ、それよりセルマさん! その目どうしたの!?」
ようやく落ち着きを取り戻したレベッカさんがこちらの顔を見ながら目を見張る。
今は何とか痛み止めの魔法で抑えているけれど、まだ少し鈍い痛みが走っているし、視界も悪い。
けれど、ホントのところあまり自分では気になっていなかった────というかまだ今は気にしないことにしていた。
鏡も確認していないんだけれど、人が見るとそんなにヒドいのかな?
「さっき切ってしまったのよ。これくらいなら大丈夫よ」
「ザックリいってるよ、無理しないで頂戴!
すぐに手当てしないと────って、セルマさんが
ドギマギするレベッカさん。
しかし、それより気になることが一つ。
「レベッカさん、貴女も、それ自分で気付いてる?
髪の色がめちゃくちゃ変わってるけれど」
「えっ……!?」
どうやら本人が気付いていなかったらしく、慌てて自分の前髪を触りだした。
先程、時が止まったような不思議な空間を作り出した後、レベッカさんの髪は自然な感じのグリーンから、透き通るような青白い髪になっていた。
どっちも素敵だと思うけれど、とりあえず気にするのは見栄えじゃない。
「大丈夫? 痛かったりしない?」
「う、うん……全く感覚的な違和感はない……」
「大丈夫なのね。ならスピカさんとクレアちゃんを助けに行ってくるから、レベッカさんはベティさんをお願いしてもいいかしら」
「あ、アタシも行くぞ……」
横で始終聞いていたのか、そばの木陰に寝かせていたベティさんが、ゆっくりと体を起こそうとする。
しかし、どうやら足の負傷は思ったよりも激しかったようで、立つ前に顔を苦痛に歪めた。
「ダメだよベティ!!」
慌ててレベッカさんが半ば押さえつけるように止める。
「くっそ────────」
「ごめんセルマさん、今ここでベティに無理させられない、歯痒いけれど─────私達はここに残る。
本当ならそんな傷のセルマさんも行ってほしくないし、私もスピカのところに駆けつけたいんだけれど……」
レベッカさんは、悔しそうにそっと目を伏せた。
しかし2人とも、一晩拘束された後、手当もせずに一緒に闘ってくれたんだ。
正直かなり無理はさせてしまっていた。
それに片足の折れたベティさんを置いてゆくしかないのなら、誰かがここに残らなければならない。
レベッカさんの白くなってしまった髪についても何が起こるか分からない危険要素だし、やっぱりここは自分も残るべきだと、分かってくれたのだろう。
仲間が闘っている中で、その当てどころのない気持ちも痛いほど分かるのだけれど────
「自分も眼の方は大丈夫よ。それにまだエリーちゃんの方のムカデは退治できてないはずだもの。
あの子がムカデの朝ご飯になる前に決着を付けるわ」
「朝ご飯─────あ、いや、気を付けてね、絶対に帰ってきてね!!」
感極まったように、レベッカさんが手を握ってきた。
一晩外の空気に当てられた冷たさと、レベッカさんの暖かさが伝わって、なんだかとても不思議な感触だった。
「行ってくるわ、またそのうち会いましょう」
2人に告げると、杖を使って空を飛ぶ。
今ごろクレアちゃんもスピカちゃんも、工場が崩壊して心配していると思う。
時計を見ると、約束の時間ピッタリ。
今からでは、合流の時間には少し遅れてしまうだろう。
そう逸る気持ちを燃料に、全速力で杖を飛ばした。