あぁ、帰りたい────
「はぁ、はぁ……うぐっ!」
自己紹介は後でちゃんとするので、まずは私の話を聞いてほしい。
私は今、森の中で野生の狼の群れに追われている。
逃げ続けて、もう数時間に及ぶだろうか。
16歳の少女がここまで走れたというのは、驚くべきほど長い時間、私は狼から逃げ続けていた。
もちろん私に人並み外れた体力があるわけでも、それを支える強靱な肉体があるわけでもない。
今の私を支えているのは、生への執着。その一点のみだった。
「はぁ、はぁ────」
しかしたった今、私のその敗走も、限界を迎えた。
先程木の幹に足を取られ転んでしまい、あまり健康的とは言えないこの白すぎる肌を、あの鋭い牙でしこたま噛まれてしまったのだ。
その時は狼たちをなんとか引き剝がせたけれど、彼らは振り払っても振り払っても、まだしつこく私を追跡してきて────
ついに私は逃げることを諦めた。
「も、もう無理、痛い、吐きそうです……」
噛み傷はあまり深くはないが、滲む血、走る
体力の限界や延々と続く緊張感も相まって、もはやこれ以上逃げ続けることは不可能なほど、私は弱っていた。
見渡すと、周りには10頭を越える狼が、私を取り囲んでいる。
じきに彼らは、私の喉を掻き切るために、動き出すだろう。
その前に、何としてでも、また再び逃げるための体力を回復しなければ────
「っ…………!」
痛みに耐えながら木の幹に背中を預け、何とか倒れないように意識を保っていると、森の合間を縫って少し強い風が、私の髪を揺らした。
その風に雲が散らされ、月明かりで私を囲む狼の姿も露わになる。
“ペガラタタタ……”
「変な鳴き声、ですね……あれ?」
月に照らされたその獣たち。
よく見るとそれらは、ただの狼ではないことに気付く。
さっきの奇妙な鳴き声もそうだけれど、彼らには両側に5つずつ、鋭い目が並んでいる。
野生の狼は私の故郷にはいなかったので実際に見たことはないけれど、目が左右合わせて10個もあるのは、流石に異常だろう。
他にもよくみたら足が6本あり、舌は蛇みたいに2つに割れている。
先ほど噛まれたときには必死で気付かなかったが、よく考えたら毛が針金みたいに堅かった気がする。
普通の狼と違うところを挙げ出したら、キリがないくらいだ。
それに────
『んっ……なにこの臭いっ?』
例えるなら、頭をかち割るような強烈な悪臭に、私は思わずゴホゴホと咳き込んだ。
卵の腐ったような匂いのようであり、以前嗅いだことのある気つけ薬のような匂いでもある。
いったいどこから────
元を探ると、自分の傷口付近からその匂いがしている事に気付いた。
それだけではない。この狼もどきたちの口からも、きつい刺激臭がする。
さっき噛まれた傷口の辺りからだけではなく、少し離れた先の彼らの口臭さえ強烈で、今にも鼻が曲がりそうだった。
逆になぜ今まで気付かなかったのか、不思議なくらいだ。
「もしかして、魔物……?」
そしてこんな暗くてジメジメしていて、狼もどきの臭いで
帰りたい────
一刻もこの窮地を脱し、暖かい布団に暖かいベッドに潜り込みたい。
私は最後の体力と気力を原動力に、生き残るため再び、狼たちから距離を取ろうと一歩後へ動かした。
「えっ……?」
けれど距離を取るはずのその体は私の意思とは裏腹に、全くその機能を果たしてはくれなかった。
身体の力が入らない?
手が、足が、膝が、肘が、股が、腹が、胸が、腕が、指が、首が、耳が、口が、舌が、喉が、瞼が、そして鼓動が、脳が。
私の身体の全てが
視界がぼやける。世界がグルグル回る。
ダメだ、私は立っている事が出来なくなり、その場にガクリと倒れこむ。
森の獣たちはそれを見ると、ニヤニヤと私を嘲笑うように口角をあげ、こちらに近づいて来た。
「ま、待って、こんなの聞いてない、ですよ……」
まずい、これは、本当に死んじゃうかも────
するとこの極限状態で自分の中に押し殺していた感情と恐怖が、最期の最期で火を噴くように押し寄せていることに気付く。
死にたくない、立ち上がらなければ。死にたくない、逃げなければ。死にたくない、戦わなければ。
死にたくない、死にたくない、死にたくない、帰らなければ。
私には、まだやるべきことが、果たせていないことが沢山あるのに────!
『だ、れか……』
私は
誰に聞こえるかも分からない、そのか細く消えかけた炎が、森の乾いた空気と混じって消えて行く。それでも────
『誰か助けてっ……』
瞬間、目の前の全てが吹き飛んだ。私を取り囲んでいた沢山の狼が、一瞬にして目の前から消え去る。
「えっ……?」
叫ぶと同時に起きた衝撃。それから少し遅れて、わずかに残った嗅覚でも感じられるほど強烈な狼の口臭に混じって、鉄の匂いが漂ってきた。
いや、鉄よりもっと生臭い────これは、血の匂い??
「な……に、が……起こって……」
突然の事態に頭が回らず、意識も
“大丈夫?”
薄れゆく景色の中で私が見たのは、真っ黒な毛並みと真っ白な翼を持った、小さな猫の姿だった。