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第32話

 畳に置かれた全身鏡に、舞衣は自分の姿を映し出した。やっぱり日本人は着物が一番似合う。そりゃ自分たちに似合うように開発したのだろうから当然と言えば当然だが。


「動かないでね。髪も綺麗にしてあげるから」


 着付けを手伝ってくれたのは祖母だ。出してくれた母親の着物たちの中から、舞衣は赤地に花が咲いた、シンプルなデザインのものを選んだ。


「お父さんは?」

「リビングでお爺ちゃんと話してるわよ。顔を合わせるのも五年ぶりですものねぇ。男は男同士、女は女同士で」


 祖母は舞衣の長い髪をブラシで梳く。お店に頼んだらコテで巻いたり、エクステしたりするのだろうが、流石に祖父母の家にそんなものはないので、長年の経験に基づくセンスにお任せだ。


「本当にお母さんそっくり――と言いたいところだけど、舞衣ちゃんはどう考えてもお父さん似よねぇ」

「自分でもそう思うよ」

「あの子も顔立ちはお爺ちゃんそっくりって言われていたから、なんだか私、寂しいわ」

「中身はたぶん、そっくりだと思うよ」

「あらそう? だったら嬉しい」


 対抗があの寡黙な祖父だもの。母親の口が達者なのは間違いなく祖母譲りだと、舞衣は思っている。祖母は梳き終わった髪を、丁寧にまとめてくれた。


「はい、できたわよ」


 その言葉に舞衣は再び鏡を見た。袖を引くように握って、身体を軽く左右に振る。真っ赤な生地の上で、花びらと蝶々がひらひらと舞った。


「うん、ぴったりね。素敵」

「ありがとう」


 着付けてくれた祖母にお礼を言って、舞衣は口の端でにっこりと笑う。祖母も満足そうに頷いてくれた。


「あとはお化粧ね。今持って来るから、待っててね」


 言い残して祖母は部屋を出ていった。舞衣はもう一度、鏡に自分の姿を映す。赤は似合うと思っていなかったので、少しだけ驚いた。しばらくいろんな角度で出来栄えを見ていると、襖の先に人の気配があった。


「舞衣、終わったか?」


 父親だった。


「化粧がまだだけど、着替えは終わったよ」

「入っても大丈夫か?」

「もちろん」


 断る理由はない。舞衣も早く、この姿を父親に観て欲しかった。

 部屋に入って鏡越しに視線が合う。父親はしばらく見とれたように立ち止まってから、舞衣の後ろに立った。


「今日、休みを取るのは大変だったか?」

「他に先に言うことがあるでしょ」


 からかうように笑うと、父親はバツが悪そうに額をかく。


「似合ってるな」

「よろしい。これ、いつの振袖なの?」

「結婚式のお色直しだ」


 父親は迷うことなく答えた。舞衣はぎょっとして目を見開く。

 結婚前に着ると婚期が遅れるんじゃ……あれ、それってウエディングドレスに限った話だっけ。

 ぐるぐると考えた結果、何でも良いかと無理やり納得することにした。


「もうすっかり大人だな」


 不意に、父親がそんなことを口にする。


「まだまだだよ」


 年齢の上ではそうだろう。お酒だって飲めるし、選挙だって行った。けど実感みたいなものは一切ない。大人は、周りに子供がいてはじめて大人と呼べる存在になれると舞衣は思った。大人だけでも、子供だけでもだめ。ましてや一人でいても決してなれはしない。「人」が自分以外の「一人」を支えられるようになって「大人」――なんていうと、金八先生じみた言葉遊びに聞こえてしまうけど、自分のことで精一杯のうちは、何歳になろうとまだまだ子供だ。


「でも式が終わったら、世間的には認められたことになるかな」

「そうだな」


 そういう事になっているのだから、舞衣はもう世間的には大人だ。それ自体を否定するようなことはしない。父親も同意したように頷いてくれた。


「お父さん、あのさ」


 話の区切りを見計らって、舞衣は今日という日に伝えようとしてた言葉を口にする。魔女を釜に放り込む魔法の呪文。それはもうわがままでなく、舞衣なりのケジメを果たした約束の言葉だった。


「あたし、東京に行くね」


 舞衣の決断を、父親は黙って聞き届ける。そして瞳にじんわりと熱を浮かべて、確かに頷いた。


「わかった」


 返事と一緒に父親の頬を涙が流れた。それはお葬式で見た涙と違って、曇り空に晴れ間がのぞいたような喜びに満ちていた。


「いい大人がみっともないよ」


 舞衣に肘で突かれて、彼は慌てて涙をぬぐう。それから鏡越しに、舞衣の後ろに並んだ。


「父さんな、毎日母さんの遺影に報告をしてた。自分のこと、家のこと、そして舞衣のこと」

「うん、知ってる」

「舞衣はしっかりした娘だから、あの日、家に残る事を選んだのだと思う。母さんとの約束もあったから……なおさら、舞衣はそれを破れないだろう。父さんは舞衣のそういうところを誇りに思っている。つきっきりで育ててくれた母さんも同じだ。だからこそ、家に残ると言った舞衣に『気にせず行け』とは言えなかった」

「それで東京に行っても、お父さんのことが心配で、気が気じゃないよ。言っとくけど、軽く引くくらいのファザコンだから。とてもじゃないけど、あの時だったら演技に打ち込むなんてできない」


 親子だもの。性格が似ているからこそ互いに分かる。身が入らず、家も、夢も、すべてが中途半端になることを舞衣は一番許せない。


「それは、娘に気丈な背中を見せられなかった父さんの責任だ。それで……毎日母さんに相談していたんだ。恥ずかしい話で、舞衣のことは母さんにまかせっきりだったから、どうしたらいいか分からず泣き言が多かった。もちろん答えなんて返ってくるわけじゃないが。母さんもなんだかんだ義理堅い人だったから、約束が果たされる時まで舞衣のことを見守ってくれるんじゃないかと信じていた。舞衣のこれまでも、これからも、悔いのない人生になるようにと」


 舞衣の鼻の奥がツンと熱くなった。


 三〇年の無遅刻無欠席――けれど舞衣が体調を崩せば仕事の合間でも帰ってきて看病をしてくれた。


 高三の進路面談――舞衣が就職すると言っても、東京の大学の資料だけは集めてくれた。よくある文系学科のパンフレットの中に、舞台製作や映画製作の知識が学べる学校のものも混じっていた。

 分からないなりに集めてくれたのだろうが、そういう系ではないんだけどな、と舞衣は苦笑した。


 舞衣が映画館に就職を決めた時、いつもより数割増しで嬉しそうに、母に報告をしていた。

 思えば、単純に娘の進路が決まったことよりも、まだ映画に関わって過ごせる道を掴んだことを喜んでいたのかもしれない。


 そして今日――


 そもそも父親は、一度だって舞衣の夢に反対したことはない。東京行きを渋ったのも、舞衣がまだ高校生になろうかという「子供」だからというだけのこと。しかるべき歳になっていたら、喜んで支援してくれただろう。

 寡黙で、言葉は少ないけれど、いつだって舞衣の味方。そんな父親だった。この間の遺品整理も、成人式に必ず出ろと言ったのも、舞衣は気づかないふりをするだけで本当は分かっていた。

 舞衣が母親の代わりになろうとしたように、父親も、改めて舞衣の父親になろうとしてくれていた。舞衣が安心してこの日を迎えられるよう、気丈な背中を見せようと。舞衣が、彼にとって支えるべき「一人」となるよう。


 お互いに臆病だった。言葉を尽くせなかった。だから互いに日々生活する姿で会話をして来た。

 娘が父に示したかった姿。

 父が娘に届けたかった言葉。

 それは今日を繋ぐためにあった。


「舞衣、成人おめでとう」


 二人のこれまでが、魔女の釜に火を放つ。舞衣を縛り付ける呪いがボロボロと煤になって散ってゆく。それが成長の証。未来への切符。彼女にとって、夢を願っても良いということ。

 舞衣は父親の胸に飛び込んだ。葬儀の時とは違う。声を出すのも、涙を流すのも、何一つ戸惑わなかった。それは悔し涙じゃない。夢は決して一人では叶えられない。沢山の人の想いがあって、その上に光り輝く。

 夢を追うこと。

 追ってもいいということ。


 五年前、怖くて直視することができなかった、棺の中の母親に面と向かって送りたかった「ありがとう」の嗚咽が、舞衣のこれからを紡いでいく。


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