目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
第30話

 それから、すっかり暗くなった国道バイパスを走って家路を目指した。

 舞衣は車を運転するのが得意じゃない。だが、車を運転すること自体は好きだった。気をつけなければならないことが多い分、他のことを考える余裕がない。慣れてくればそんなことはないなんて話をよく聞くが、それは時速六〇キロで走る凶器を扱っている自覚がないだけのこと。交通ルールというのは、みんなが守れば事故を起こさないようにできている。

 守れない人がいるから、母親はこの世を去った。

 バイパスは帰宅ラッシュの車で長蛇の列だった。信号の待ち時間が長くなって、テールランプとウィンカーが闇の中で明滅する。

 不意に、鞄の中でスマホが震えた。それだけじゃない。登録した覚えのない着信メロディが車内いっぱいに響き渡った。

 スマホ世代は利用したことがない、ガラケー世代の古い音源。マナーモードにしていたはずなのに――と、舞衣は小さく首をかしげるはめになる。

 奇しくも、舞衣はそのメロディに聞き覚えがあった。確か『着信アリ』の「死の予告電話」の着信音。思い出すと同時にゾクリと背筋が震える。


 え、何?

 いきなりそういうのあり?


 運転中のため取るにも取れないまま、待機時間いっぱいを過ぎても、着信が止む気配はない。悪戯だとしても流石にあり得ない。かといって「本物」だとも思えない。

 映画はフィクションだ。エンターテイメントだ。たとえ何かしらの「本物」だとしても、フィクションの内容と全く同じなんてことはあり得ない。

 死の着メロは止まらない。舞衣はしかたなく、目についたコンビニの駐車場に車を停めた。深呼吸をして、鞄からスマホを取り出す。おそるおそる覗き込む画面。発信者の名前は『藍田舞衣』だった。


「芸が細かい」


 そこまで来ると、思わず突っ込みを入れてしまう。途端に緊張は急降下していき、悪意しかない悪戯の主にモノ申してやりたい思いがふつふつと湧き上がる。舞衣はもう一度だけ呼吸を整えてから、受話ボタンをタップした。


「もしもし?」


 通話は確かに繋がった。だがあちらからの返事はない。舞衣はしかたなく、聞いてはいるであろう相手に、思う存分八つ当たることにした。


「流石に芸が細かすぎ。着信が止まないくらいまでは緊張感があったんだけど、まだ非通知の方が怖かったわ」


 するとスピーカーの先から、ころころと鈴の音のような笑い声が転がる。


『残念ね。ちょっと張り切りすぎたかしら』


 どこからどうやって掛けているのか分からない。けれど、その電話の主は間違いなくフォレストの少女霊・アマネだった。


「いつの間に連絡先を手に入れたのよ。許可した覚えないんだけど」

『あら。交換するか聞いた時に、『いい』って答えたじゃない』

「どう考えたって『いらない』って意味でしょうが」

「あらあら。日本語って難しいわねぇ」


 悪びれない笑いは、彼女の生き方そのもののようだった。


「それで、何の用?」

『用ってほどでもないのだけれど』


 アマネの吐息が耳元にこぼれる。


『星が綺麗だったから、誰かに教えたくなったのよ』


 言葉につられるように、舞衣は窓の外を見る。さきほどまでちらついていた雪はすっかり止んでいて、雲の切れ間から星空がのぞいていた。


「星が見えるたびに電話されたんじゃ、たまらないんだけど」

『つれないのね』


 そう答える彼女の声は、どこか湿り気を帯びていたような気がした。


『ねぇ』


 アマネが呼びかける。


『劇場に来ない? たまにはスクリーンじゃなくて、空を見上げるのも良いと思うの』


 受話器越しの舞衣には彼女の姿見えない。けれど彼女の方からは見られているような、そんな気がしていた。


「いいよ」


 短く答えて舞衣は通話を切る。街灯がともる柔らかな道を、車が流れていく。


 フォレストに到着した舞衣はすぐにアマネの姿を見つけた。彼女は入口脇の軒下に腰を下ろして、ひとり空を見上げていた。


「さむっ……やっぱりやめとけば良かった」


 舞衣は隣に並んで、かじかむ手をこすり合わせる。こんなことならコンビニでホットドリンクの一本でも買ってくるんだったと後悔した。天体観測の相方は、寒さなんて微塵も感じないであろう幽霊なのに。


「寒いのは苦手だものね」

「ほんと。何にもなければ冬が一番嫌いな季節だよ」


 白い息を手に吹きかける。ほんの一時だけ手に温もりが戻って、すぐに冷たくなる。舞衣は星の瞬きみたいにそれを繰り返していた。


「せっかく来たのだから、下じゃなくて上を見ましょう? ほら、また晴れ間が増えてきたわ」


 アマネにつられて舞衣は空を見上げる。先ほどよりも大きく開いた雲の間から、本物の星がかすかな輝きを灯していた。それほど詳しいわけではないが、シリウス、ベテルギウス、プロキオン――冬の大三角。地学の授業で聞いたことあるような星々なら、探せばすぐに見つけることができた。


「天体観測なんて小学校以来かも」

「悪くないでしょう?」

「うーん、どうだろ。よくわかんない」

「そうやって、すぐに考えるのをやめちゃうのは、悪い癖だわ」


 アマネの指摘にどきりとする。舞衣はオリオンのベルトをなぞっていた視線を、傍らの少女へと落とした。彼女もまた、星と一緒に舞衣のことを見上げていた。


「お仕事、どうするか心は決まったの?」


 うん――頭で思い浮かんだ言葉が口から出てこなかった。その様子を見て、アマネは寂しそうに笑ってみせた。


「選ばされた道を歩くほど、後悔する生き方はないわ」


 ストレートな叱咤が舞衣を黙らせる。ずっと正しいことをしてきた。何も間違っちゃいない。誰の前でも恥ずかしくない生き方を選んできた。それが自分に求められることだから。大人として求められることだと思っていた。

 でもそれが後悔――間違っているというのなら。


「あたしは、どうすればいいの?」


 それは胸の内の魔女への問い。魔女の目的は子供たちを食べてしまうこと。彼女の言葉に従うたびに、心は余計に蝕まれていく。


「私にそれは選べないわ。選ぶのは舞衣、あなただもの」


 突き放すようにアマネは語る。舞衣にもそれは分かっている。父親にも同じことを言われた。自分でもそう思う。

 だけど今、正解が分からない。家族にとっての正解。会社にとっての正解。親友にとっての正解。自分にとっての正解。それはきっと違った答えで、すべてを等しく満たす決断なんて存在しない。どれを選んでも何かが欠ける。何かが中途半端になり、結果、そこに関わる人を傷つける。だったら――


「選びたくない……選ばせないで欲しい」

「選べるということは幸せなことなのに?」

「幸せなもんか」


 舞衣はきっぱりと否定する。誰かが犠牲になるのなら、いっそ選ばせてくれない方がいい。道を示してほしい。そうしたら、すべてを人のせいにできるから。自分は道を外れないよう、胸をはって生きていくだけでいいから。

 アマネが再び空を見上げる。まるで星々の間に答えを探すように。それからすっかり下を向いてしまった舞衣に語り掛けた。


「ナルニア国物語」

「……え?」


 はっとして舞衣は顔をあげる。


「アスラン王は、エドマンドの命を助けるために自分の命を捧げたわ。たった一人、心細くても、笑いものにされても、エドマンドのために最後まで誇りを捨てなかった」


 アマネの澄んだ声が耳に心地よく響く。それは舞衣にあの一節を思い起こさせる。


「裏切り者に代わり善なる者が命を捧げた時、石舞台は砕け、死は振り出しに戻る」

「よく覚えてるわね」


 アマネは驚いたような、それでいて嬉しそうに声を弾ませた。


「あたしは、家族のために犠牲になったよ。だけど善なる犠牲じゃなかったから、石舞台は答えてくれない」

「それは違うわ」


 舞衣の言葉は優しく否定される。


「だって、あなたはアスラン王ではないでしょう。舞衣が望んだのは、衣装ダンスの先に広がる、心躍るナルニアの世界じゃないの?」


 蘇る〝初めて〟の記憶。誰もが一度は憧れた異世界との遭遇。未知の冒険。心温まる涙。勇気。そして希望。それをめいいっぱいに受け取る兄弟に、舞衣は憧れを抱いた。それが、藍田舞衣の物語の始まりだった。


「でも、そうしたらアスラン王が――大切な人が犠牲になっちゃう」

「大丈夫よ」


 アマネは被せ気味に、力強く頷いた。


「あなたが願いを叶えれば、犠牲の全ては報われる。だってそれはあなたを想う、善なる犠牲のはずだから」


 石舞台は砕け、死は振り出しに戻る。エドマンドのために命を捧げたアスランは、石舞台に刻まれた言葉の通りに、兄弟たちの前に蘇った。それは自分がいなくなっても、兄弟たちが魔女を倒してくれると信じていたから。兄弟たちもまた、彼が善なる犠牲であることを信じていたから。

 犠牲なしに救われる命はない。

 犠牲なしに叶う夢はない。

 舞衣は唇をぐっと噛みしめた。


「映画の話をしていたら、なんだかスクリーンが恋しくなったわ」


 不意にアマネが空に飛びあがって、いつもの位置から舞衣を見下ろした。舞衣は星と一緒に彼女を見上げ、ふんと鼻を鳴らした。


「冒険ファンタジーはやってないけど」

「別になんだっていいのよ。あなたと映画を観たいの」


 アマネは口元を隠しながらクスリと笑う。


「何であたしと?」

「一人じゃ心細そうだから」

「馬鹿言わないでよ……でも」


 舞衣はおどけたように、アマネの瞳を覗き込んだ。


「おすすめの映画を一本決めてくれるなら、観てもいいよ」


 アマネは狐みたいな顔でくすくすと笑う。袖に隠し切れない口から零れるのは、金平糖みたいに軽やかな声だった。


「そう尋ねられたら、こう返すことにしてるの。『その代わり、絶対に観てくれる?』って」


 その悪戯っぽい笑みを、舞衣は知っている。だから何の疑いもなく頷き返す。


「いいよ」


 了承を経て、アマネは一つの作品名をつぶやいた。舞衣は一瞬渋い顔をするが、約束は約束だと頷いてみせる。週中のレイトショー。劇場のロビーがガラガラだった。


「お、舞衣ちゃんお疲れ様」


 チケット売り場の横尾が笑顔で出迎える。カウンター越しに、舞衣は社員証を手渡した。


「お疲れ様です。今から、良いですか?」


 横尾はそれを受け取って、裏のコードを読み取った。


「何にするの?」

「シリウス」

「ああ……わかった」


 表示された座席表から席を選ぶと、すぐにチケットが発券される。横尾はその場で半券をもぎってくれた。


「観たくないのかと思ってたよ」

「観ないと祟られそうなので」


 半券を手渡されて、舞衣はそれを財布の中に仕舞う。

 横尾が暖かい笑みを浮かべて、舞衣を送り出してくれた。


「それじゃ、ごゆっくり」


 見送られて、舞衣はシアターの扉をくぐる。


コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?