それから、センターの個室に陽奈とふたり、印刷してもらったばかりの台本を手に向かい合う。先生は「先に劇団の指導をしてくるから、その間に読み合わせをしておいてください」と言い残して、小ホールの方へ行ってしまった。
「懐かしいねー。役はどうする?」
台本をぺらぺらと早読みする陽奈に対して、舞衣はじっくりと中身を精読する。先生が言った通り、一度演じた本だ。ソラで全部言えるとまでは言わないが、読み進めるうちに内容はすらすらと頭に入って来た。
「やっぱり、舞衣ちゃんがグレーテルで、私が小鳥かな? ちょうどいい長さの掛け合いのところがあるし」
「ううん……逆が良いんじゃない。グレーテルの方が圧倒的に台詞が多いし。陽奈が喋んなきゃ稽古にならないでしょ」
「えー、久しぶりに舞衣ちゃんのグレーテルが見れると思ったのに」
「大人になったグレーテルじゃ、ウィッチハンターになっちゃう」
「あはは、そんな映画もあったね」
くだらない話をしながらも、配役は決まった。
未経験の役ではあるので、軽く読み合わせをしておく。身振り手振りを交えない、頭を突き合わせて台本を読むだけの作業。しかし、陽奈の最初の台詞を聞いて、舞衣はぎょっとしてしまった。
「小鳥さん、どうしてパンを食べてしまったの?」
「それ、もしかしてあたしの演技?」
「もちろん。陽奈の中で、この本のグレーテルの完成形は舞衣ちゃんだもん」
「いや、それはどうだろ……」
陽奈の演技がそういうのだって言うのは知っていたが、だからと言って自分の――しかも幼少の頃の自分を模倣されるのは、恥ずかしさが勝った。
「しかも、ちょっと違くない? あたしのグレーテルは、もっと可愛げがあった」
「陽奈、可愛くないっていうの? それに、舞衣ちゃんのグレーテルは、これくらいエネルギッシュだったよ」
「いやいや、快活だけど、あどけなさもあるっていうか」
「そんなに言うなら手本見せてよ」
陽奈が期待に満ちた目で舞衣を見つめる。舞衣は「しまった」と思いつつ、自分で違うと言ってしまった手前、嫌だと言い返せなくなってしまっていた。
「……下手くそでも笑わないでよ」
「笑うわけないよぉ」
「じゃあ、今のとこの台詞だけ」
小さく咳ばらいをしてから、それまで見ていた小鳥の台詞ではなく、グレーテルの台詞に視線を走らせる。一度やった役だ。遠い昔の記憶でも、こうして台本を見れば、何となくあの日の感覚が蘇る。
「小鳥さん、どうしてパンを食べてしまったの?」
「わ~、舞衣ちゃんの生グレーテル!」
陽奈は目を輝かせながら、手をパチパチ叩く。ひとり盛り上がっている彼女だったが、その目の前で、舞衣はかすかに首をかしげた。
「ごめん、もっかいやって良い?」
「え、うん。もちろん。何度でも!」
舞衣は、もう一度だけ台詞を読んでから、台本を閉じて膝の上に置く。
今のワンテイクは、どうにもしっくりこなかった。きっと、台詞を文字で追ってしまったからだ。そう理由づけて、今度は台本を置いたのだ。
「小鳥さん、どうしてパンを――ごめん、やっぱ、なんか違う」
言い訳するみたいに前置いて、舞衣は台本を床に放る。
演技は、ステージと身体に沁みついているものだ。単なる読み合わせならまだしも、演技や間の取り方に関しては、動きを乗せた方が馴染みやすい。
「小鳥さん、どうしてパンを食べてしまったの? ううん、あたし、もうちょっと上手かったな……ね?」
「えっ……それは……うん」
陽奈が何とも曖昧に頷く。
「その中途半端な感じは何?」
「舞衣ちゃんが、下手でも笑うなっていうから……」
「その一言だけで理解できた……ありがと」
舞衣は大きなため息をついて、その場にへたり込んでしまった――かと思えば、ぴょんと飛び上がって、身体をほぐすように屈伸運動を始める。
「舞衣ちゃん?」
「なんかモヤモヤする……っていうか、十年前の自分の方が上手かったって事実が、なんか嫌」
「し、仕方ないよ。久しぶりなんだし」
「そりゃ、そうなんだけどさ」
理屈としては分かっている。
単純な演技なら五年。
グレーテル役ってことなら十年以上のブランク。
下手になっていても当然だ。それでも納得ができないのはなぜなのか、舞衣自身にも分からなかった。
母親の話を聞いたから?
それとも陽奈に触発された?
理由はなんにせよ、どうしようもない不快感だけが、ぐるぐると胸の内を渦巻いていた。半ば彼女の勢いに飲み込まれかけていた陽奈だったが、やがて笑みを浮かべて、ヘアゴムで髪をひとつに縛る。
「よーし、それじゃあリハビリしよっか!」
「そんな大げさな話じゃないんだけど」
「良いから良いから。まずは発声練習して、その後は活舌だね!」
陽奈は目に見えて分かるほどワクワクしていた。自分の方から言い出した我が儘なのにと妙に釈然としない舞衣だったが、今だけは陽奈の強引さに身を委ねても良い気分だった。
結局――納得のいく演技ができるよりも先に、体力の限界が来てしまった。ブランクは、舞衣の演技の勘だけでなく、身体の方まで鈍らせてしまっていたらしい。先生が戻って来るころには、すっかり息切れしてヘタっていた。
「舞衣さん、良かったらまた劇団に来ませんか?」
舞衣の息が整い始めたのを見計らったように、先生がそんな提案をする。
「演技は生涯続けることができます。それを仕事にしなくても」
「お母さんみたいにってことですか?」
「お母さんのようになる必要はないんです。舞衣さんなりに、もう一度演技と向き合ってくれるのなら、先生としては、これ以上に嬉しいことはありません」
「……ありがとうございます」
すぐに返事のできなかった舞衣は、彼の気持ちに感謝だけ示した。
「ごめんね陽奈。貴重な稽古の時間をあたしのために使っちゃって」
「ううん、それは良いの。また舞衣ちゃんと演技ができて嬉しかったし」
「帰り、送ってこうか?」
「あ! うーん……残念だけど……今日この後、お父さんが迎えに来て、家族でご飯食べに行くの」
悔しさいっぱいに答えた陽奈に、舞衣は苦笑で返す。演技の勘は戻らなかったけれど、少しだけ気分が晴れたような気がした。