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第28話

 明くる日、仕事を終えた舞衣は、その足で市民センターへと向かっていた。自分の足でここへ来るのは、初めてのことだった。通っていた頃は母親が送り迎えをしてくれたし、母親がどうしても出られない時は父親か、もしくは陽奈の親が代わりを務めてくれた。

 今日は週に一度の稽古の日だから、きっといるはず。そんな舞衣の目論見通り、稽古場として使われている小ホールには、劇団員たちと共に先生の姿があった。


「おや、お久しぶりです」


 のんびりとした笑顔で出迎えてくれた先生は、記憶より幾分年を取ったように見えた。ずいぶんと白髪が増えたせいだろうか。当たり前のことだが、月日の流れを見せつけられたかのようだった。

 稽古中であることに気を遣って、舞衣は会釈だけで挨拶に応える。それからホールの隅に寄って、稽古がひと段落経つのを待った。

 休憩時間になると、舞衣は先生に連れられてセンターのエントランスへとやってきた。ベルベット張りのベンチに腰かけると、先生が紙コップのコーヒーを差し出してくれる。


「自動販売機のものですが」

「いえ、ありがとうございます」


 先生は舞衣の向かいに腰掛け、自分のコーヒーに口をつける。ひと口飲んで、同じくらいのため息を吐きだすと、穏やかな顔で舞衣を見つめた。


「ずいぶんと変わったでしょう」

「え……あ、はい。その、ずいぶんと白髪を蓄えられて」


 突然の質問に狼狽えて、舞衣は自分でもよく分からない返しをしてしまった。先生は声をあげて笑うと、白髪交じりの髪を撫でる。


「参りましたね。歳には勝てませんが……訊ねたのは劇団の話ですよ」

「あ、ああ、そうですよね。すみません」


 舞衣も平謝りして、先ほどの稽古場の光景を思い出す。


「人、減りましたね」

「そうですね。それが一番の変化だと思います。少子化に高齢化。我々のような市民団体は、その煽りを確実に受けています」


 とっくに劇団を離れた舞衣でも、そのことには一抹の寂しさを覚えた。高校で所属していた部活が、人数不足で廃部になってしまうのと似た感覚。古巣が衰えて行く姿を目にするのは、やっぱり寂しい。


「それで、今日はどのようなご用件で?」

「母の話を聞きたくて」


 そう長くない休憩時間だ、舞衣は一切の躊躇なく本題へ踏み切った。先生はいくらか驚いた様子で目を丸くしたが、コーヒーをもうひと口飲むころには、元の穏やかな表情に戻っていた。


「母が劇団員だったころのテープを見ました」

「なるほど……大事にとっていたんですね」

「たぶん、母が関わっていた上演のぶん、全部あります」


 すべてを見終えたわけではないが、テープの数から考えたらそのくらいはありそうだった。


「彼女が劇団に来たのは、高校生くらいのことだったと思います。演劇部に入りたかったけれど、通っていた学校には無かったそうで、学外の団体を探してたどり着いたそうです」

「役者になるのが夢だったって、祖母から聞きました」

「ええ、よく相談を受けていました。両親のご理解を得られなかったことも。高校を卒業するころには、本気で家を出ることも考えていたそうです」

「でも、そうしなかった。母ほどバイタリティのある人なら、できたはずなのに」


 その先に成功が待っているかはわからなかったが、挑戦はできたはずだ。そして、その決断をしないような人でもない。舞衣自身が、母親と言う人間をそう評価している。

 先生はひと呼吸置くようにコーヒーに口をつけた。


「家族を置いてはいけない……と、私はそう伺っています」

「家族?」

「この場合は、ご両親のことでしょう」

「そりゃあ、父とも出会っていないでしょうしね」


 互いに苦笑し合う。


「夢を理解して貰えなかったことは腹立たしいが、苦労しながら育てて貰った恩を忘れることもできない。この街に残ることを決めた時、彼女はそんなことを言っていました」

「それで、夢を諦めた?」

「そうとも言えるし、そうではないとも言えます。彼女はこの劇団を、自分にとっての最高の舞台として、精力的に活動してくださいました」

「劇団を、夢の代わりにしたんですね」


 だとすれば、そのテープを大事に取って置いたことも納得ができた。母にとって舞台のテープを集めることは、自分の出演するドラマや映画の円盤を揃えるのと同じ意味を持っていたのかもしれない。


「舞衣さんのお母さんのことで、ひとつだけ後悔していることがあります」

「え?」

「彼女が家を出るべきか悩んでいる時、私はただ相談に乗ることしかできなかった。ご両親と話をして、互いに納得する形で彼女を送り出すことも、できたかもしれないのに」

「そんなの、単なる結果論ですよ」


 珍しくしんみりとした様子の彼に、舞衣は静かに断言する。


「それに、もしも母が夢を追いかけ続けていたら、あたしは今ここに居ないでしょう」


 父親と出会うこともなければ、舞衣が生まれることもない。だとすれば、夢ではなく家族を選んだ母親の決断に、舞衣は感謝しなければならないのかもしれない。

 複雑な思いではあったが。


「だけどやがて結婚して、あたしが生まれたことで、その劇団もやめてしまったんですよね」

「ええ。書類上は〝休籍〟ということになっていましたが。本当に残念です」


 先生はすくりと立ち上がって、飲み終わったコーヒーのカップをくず籠の中に落とした。


「舞衣さんを劇団に連れて来た時は、とても嬉しそうでした」

「……母はなんて?」

「残念ですが、おそらく舞衣さんが求めるようなことは、何もおっしゃって居ませんでしたよ。娘をお願いしますとだけ。ただ……」

「ただ?」

「久しぶりに私の前に現れた時の彼女は、初めて会った時と同じ目の輝きをしていました」


 それは、夢を追っていた時の。諦めを知る前の。


「私にとっても、挽回の機会と感じていたのかもしれません。今度は両親から応援されるあなたの、夢をサポートできるのだと」

「先生には本当にお世話になりました」


 舞衣も、ぬるくなり始めたコーヒーの残りを一気に煽った。動揺してか、少しだけむせかけたが、吹き出すことなく飲み込む。


「でも、あたしも結局、家族といることを選んだ。親子ですよね……笑っちゃいます」

「笑うことはないですよ。カップ貰います」

「ありがとうございます」


 先生は、舞衣のカップを受け取って同じようにくず籠へと放る。それから時間を気にするように腕時計に目を落とした。


「そろそろ、休憩終わりですか?」

「ええ、それもあるのですが――」


 何かを言いかけたところで、カツカツと軽やかな足音がエントランスに響く。舞衣が咄嗟に振り返ると、足音の主とバッタリ目が合ってしまった。


「……陽奈?」

「え……舞衣ちゃん?」


 お互いに、どうして相手がここに居るのか分からない様子だった。見つめ合ったまま、牽制するように瞬きを繰り返す。そんな中でようやく動けた舞衣は、弾かれたように先生を見る。


「先生が呼んだんですか?」

「いえ、陽奈さんの方からですよ」

「陽奈が?」


 今度は陽奈のことを見る。陽奈は一度だけびくりと肩を揺らしたが、やがて小さく頷き返す。


「東京に戻るまで、先生のところで演技指導してもらってて……えっと、舞衣ちゃんは?」

「あたしは、別に――」

「そうだ」


 微妙な空気を察してか、舞衣の言葉の途中で先生がパチンと手を打った。


「舞衣さん、良ければ手伝ってくれませんか?」

「手伝うって……何をです?」

「もちろん稽古ですよ」


 その言葉に、舞衣はギクリとする。


「陽奈さんを一般の団員と同じメニューにはできませんからね。とは言え、ひとりよりふたりの方が良い稽古になるのは明白です。陽奈さんはどうですか?」

「も、もちろんです! えへへ……舞衣ちゃんと稽古なんていつ振りだろう」


 はにかんで見せた彼女は、どの籠目陽奈なのか。今の舞衣にはさっぱり判断がつけられなかったが、少なくとも本心で喜んでいるんだろうなということだけは、なんとなく分かった。


「でも、私じゃ相手にならないよ」


 思い起こされるのは、雪山でのことだ。場の空気と、なんでもない陽奈の演技に圧倒されてしまった自分。陽奈の成長と、自分の衰えを実感した、恥ずかしくも苦い記憶だ。


「では、『ヘンゼルとグレーテル』ならどうですか?」


 先生が妙案だと言いたげに語る。


「経験のある本なら、気負う必要は無いでしょう。それとも、流石に忘れてしまいましたか?」

「いえ……たぶん、台本さえあれば」

「では、用意しましょう」


 先生は微笑んで、センターの事務室へ向かって歩いて行ってしまった。舞衣は眉間に皺を寄せながら、項垂れるように下を向いた。


「舞衣ちゃん……嫌だった?」

「嫌と言うより、あたしじゃ何の役にも立たないよ」

「そんなこと無いと思うけど……」


 陽奈が言葉を濁す。気を遣っているというよりは、単純に言いくるめる方法を考えているような、そんな間だった。


「じゃあ、ジンジャーマン!」

「は?」


 何の脈絡もなく発せられた陽奈の言葉に、舞衣は怪訝な顔で見つめ返す。


「なんで今、ジンジャーマン?」

「人形! ジンジャーマンの!」

「ああ、あの、場当たりの相手役にしてた」


 ふたりで稽古した時に、よく足りない役者の代わりをしてもらったジンジャーマン人形。確か、今は陽奈が東京に持って行っているという話だった。


「つまり、居るだけで良いってこと?」

「舞衣ちゃんが、どうしても嫌だっていうならせめて……ジンジャーマンでも良い稽古になるから」


 陽奈の提案は、最後の方はほとんど消え入るような声だった。だんだん自信がなくなって来たのだろう。舞衣は小さくため息で返した。


「いいよ。だけど、ほんとにジンジャーマンだから」

「ほんとにジンジャーマンだけ?」

「……台詞の棒読み機能付き」

「やった♪」


 陽奈が、ぎゅっと拳を握りしめて小躍りする。本当に棒読み人形になるだけ。舞衣は自分にそう言い聞かせながら、父親に「今日は遅くなりそう」とメッセージを送った。


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