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第26話

 残業もなく仕事を終えて職場を出ると、夕焼けが夜の帳へと変わった直後の、宵の空が広がっていた。澄み渡った空に、一等星の瞬きが明滅する。二等星以下の輝きが見えるには、もう少しだけ時間がかかる。

 車の運転席に乗り込むと、鞄ごとロッカーに入れっぱなしだったスマホを引っ張り出した。陽菜からの通知はなかった。再会してから、これだけ連絡が途絶えたのは初めてのことだ。

 既読無視をしたって矢継ぎ早に送られてきていたのに。それが突然ゼロになると、なんてことはない「おはよー」の一通が待ち遠しくも感じられた。もしくは、舞衣からの連絡待ちなのかもしれないが、かける言葉が今は思いつかなかった。

 どうでもいい相手なら、心にもない「ごめん」の一言で、簡単に関係修復してきたものだったが。

 スマホを助手席のシートに放り投げようとしたところで、ぶるぶるとマナーモードの振動があった。通話の着信だった。


「もしもし」

『舞衣か。今、大丈夫か?』


 スピーカーの向こうから響く父親の声に、舞衣は優しい声色で「大丈夫」と答える。


「今ちょうど、仕事が終わったとこ」

『なら良かった。成人式の話だが、振袖の予約はしたのか?』

「それなら、スーツで良いかなって」


 忘れていたわけではなかったが、忙しさと心労と、結果的なめんどくささもあってそうすることに決めた。


『さっき老野森から電話があって、ちょうどその話をしていたんだ。帰りに寄ってこれるか?』

「お祖母ちゃんち? 良いけど、お父さんは? ご飯どうするの?」

『今日は会社の新年会だ』

「そうだったっけ。じゃあ、あたしもお祖母ちゃんとこで食べてくるかな」


 そう言って舞衣は通話を切った。今度は放り投げようとせずに、スマホを鞄にしまう。

 同時に妙なデジャビュを感じて、一度車の中を見渡した。またアマネが盗み聞きしているかと思ったけど、今回は違うようだ。安堵の溜息をこぼして、舞衣はキーを捻った。


「ごめんね、舞衣ちゃん。昨日の今日なのに」

「職場からなら家に帰るより近いし、いいよ。それよりどうしたの、いきなり」


 自宅に寄らずにまっすぐ祖父母宅へ向かった舞衣は、玄関でブーツを脱ぎながら、出迎えてくれた祖母を見上げる。祖母は柔らかな笑みを浮かべて、彼女を居間ではなく、客間の座敷へと連れて行く。


「……これって」


 座敷に広がっていた光景に、舞衣は静かに息を飲む。

 壁一面に、色とりどりの振袖が提げられていた。ちょっとした呉服店状態だ。そのすべてではないが、いくつかの着物に舞衣は見覚えがあった。


「これって、お母さんの……」

「昨日、舞衣ちゃんがいろいろ運んで来てくれたでしょう。さっそく整理をしようって思ったら、これが出てきて。そしたら、この間、お父さんが成人式の話をしていたのを思い出したから」


 昨日、舞衣が運んできた母親の荷物が、座敷の隅に積まれている。その一部――主に衣装ケースの荷が解かれていて、他にも帯やら小物やらの品々が広げられていた。


「良かったら、どれでも着てあげてくれると、あの子も喜ぶと思うわ」


 祖母の言葉を背に受け、舞衣は目の前の着物たちに視線を巡らせる。


「これ、中学の入学式の時に着ていたやつ。こっちは確か、従妹の結婚式で」


 他、特定できるほどの記憶は無かったが、小学校の入学式も卒業式も、ここにあるどれかを着ていたはずだ。大事な式典の際には和装をするのが、母親のトレードマークだった。


「それは、あの子に初めて作ってあげたお着物ね。成人式の時に。そっちのは見たことが無いから、たぶん、自分で仕立てたやつなんでしょう。言ってくれたら買ってあげたのに」


 祖母も舞衣の隣に並び、着物の生地に振れながら、懐かしむように言う。


「こんなに持ってたんだ。知らなかった」


 と言うより、単純に舞衣が興味を持っていなかっただけかもしれない。見るたびに綺麗だなとは思っていたけれど、入学式や卒業式は自分の楽しみばかりで頭がいっぱいだった。


「ウチはあんまり裕福ではなかったから。特にあの子が子供の時は、なんにも買ってあげられなかったのよ」

「それは、お母さんから聞いたことある気がする。お弁当の卵焼きが何よりの贅沢だったって」

「うんと甘いやつね。覚えてるわ。畑で飼っていた鶏が卵を産んだ時のご馳走だった」


 祖母にとっては、懐かしくも口惜しい記憶なのだろう。苦笑するその瞳には、僅かに後悔の色が滲む。


「いくらか余裕が出始めてから、初めてちゃんと買ってあげられたのが、成人式の時のお着物だったの。それから、大事な日には仕立ててあげるようになったの」

「どうして着物だったの?」

「母親は、娘にお着物を作ってあげたくなるものなのよ」

「そういうものなんだ」


 残念ながら、その気持ちは舞衣には理解できなかった。将来、自分に子供ができたら分かるようになるんだろうか。それは、とてつもなく遠い未来か、なんなら一生来ないようにも感じられた。


「あの子は舞衣ちゃんに買ってあげられなかったから、少しでも代わりにね。私が買ってあげても良かったのだけど、それはなんだか違うような気がしてしまったし」

「それはそうだと思うよ。だから、こうして気にかけてくれるだけで嬉しい」

「そう。なら良かった。どれでも好きなのを選ぶといいわ。試着もできるように準備してあるし」

「うん……そうだね」


 順に着物に振れながら、舞衣はどこかうわの空で返事をする。祖母の気持ちは嬉しい……が、母親の形見だというなら、なおさら借りるのは気が引けてしまう。いや、借りるというのがそもそも沿わない表現であるわけだが、舞衣にはそう思えて仕方がなかった。

 この場は「考えさせて貰う」ことにして、お暇しようか。そう思い始めたところで、視界の端に気になるものがうつった。


「……これは?」


 荷解き中で半開きになった箱の中に、見慣れないクリアケースが詰められていた。中に入っているものを、舞衣は生まれて初めて目にしたが、それが何であるかは知っている。磁気テープのカセットってやつだ。


「これって、ハンディカム用だよね?」


 疑問形になったのは、今や骨董品になってしまったVHS‐Cカセットを目にしたからではなく、家でそんなものを使っていた記憶がなかったから。舞衣の記憶では、両親が使っていた家庭用ビデオカメラはとっくにカードスロット型式のものだったし、中学に上がったころにはスマホだって普及していた。

 だったら、いつの?

 残念なことに、こういうところはずぼらだったのか、見出しシールは張られていなかった。


「あら、懐かしいわね。ちょっと待ってて。お爺ちゃ~ん」


 祖母が、声を張り上げながら部屋を出て行く。そのまましばらく、遠くで部屋を行ったり来たりする音が響いていたが、やがて小脇に鞄型のケースを抱えて戻って来た。


「あったあった。壊れて無ければ使えると思うのだけど」


 鞄の中に入っていたのは、少々重くてゴツイ見た目のハンディカム。VHS‐Cに対応した古い機種だった。


「これで見れるの?」

「使い方は分からないけれど……お爺ちゃんなら覚えてるかしら」

「大丈夫。そういうのって、今は簡単に調べられるから」


 たぶん、動画サイトで型番を調べれば、古いデジモノレビューのチャンネルのひとつくらいヒットするだろう。


「これ、借りてって良いかな。テープも」

「もちろん。それで、お着物はどうする?」

「ごめん。次に来た時まで考えておくから、今日は参考に写真だけ撮って帰るね」


 舞衣の興味は、すっかりテープの方に移ってしまっていた。見出しのない記録の山に、舞衣の知らない母親の記憶が込められているような気がした。


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