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第24話

「いや、いやいや、ちょっと待って」


 舞衣は靄をかき消すみたいに両手を振る。違う。掻き消したいのは、あの時の記憶だ。


「確かにあの時、先生とそういう話をした気がするよ。けど、あの時は劇団を辞めるつもりだったでしょう? あたし、そのために陽奈を先生のところに引っ張っていったんだから。それをひっくり返して、続けていくのを決めたのは陽奈だよ」

「あの状況で、あの話の流れで、辞めますって言える人いるかな?」


 言える――と舞衣は頷こうとした。自分なら言える。自分が陽奈の立場なら。でも陽奈は舞衣じゃない。舞衣のできるは、彼女のできるじゃない。そんなこと、知っている。


「それでも……嫌なら、辞めれたでしょう」


 苦し紛れの言葉。責任の所在を探すみたいに、舞衣は問いかける。


「怒ってるわけじゃないよ。むしろあの日があったから、辞めたくないって思い続けられた。舞衣ちゃんと、ちゃんと友達になりたいって思った。舞衣ちゃんが観ている世界を、陽奈も素敵だなって思ったから。一緒にそれを見ていたいなって。それが陽奈の夢だったから」


 陽奈は祈るみたいに両の手を重ねて、こすり合わせた。


「陽奈は誰かにならないと舞台に上がれないから、それを続けていたよ。ずっと、ずっと。舞衣ちゃんと別々になってからも、ずっと、ずっと、ずっと。だって舞衣ちゃんは陽奈と違って、ちゃんとできる人だから。いつか夢を叶えるって知ってるから。陽奈の夢を叶えるために、舞衣ちゃんが夢を叶えるのを待っているの」


 久しぶりにフォレストで会った時、陽奈の姿がスクリーンを通したように見えた。二回目もそう。舞衣は、住む世界が違うからと思っていた。だがそうじゃない。それは確かにスクリーンの中の彼女だった。

 舞台に立っていた舞衣ならわかる。例え目の前で、同じ部屋の空気を吸っていても、ステージの境を越えればそこは異世界。役者が世界を演じれば、そこは非日常の空間。スクリーンの向こう側へと変わる。


 だからこそ分からない。

 目の前の彼女は今、誰を演じている?


「陽奈は今……『籠目陽奈』を演じているの?」


 ぶるっと、陽奈の肩が震える。初めて見せた動揺は中身の機械の不調でなく、彼女の皮が、外側が見せた反応。


「舞衣ちゃん……手、繋いで良い?」


 陽奈が尋ねる。舞衣は恐る恐る手を伸ばす。冷え切ったカップの上。陽奈は両手で包み込むように、差し出された手を取った。


 凍え切った手のひら。背中に突っ込まれたら飛び上がってしまいそうなほど。ああ、そうだ。陽奈の手はそうだ。暖かいのも、汗ばむのも、いつも舞衣の手から。ぬくもりが伝わる、温めてくれる手を、陽奈は安心して握りしめる。

 熱を分けて貰うように、陽奈は冷えた手のひらをすり合わせる。包まれた手から、舞衣は陽奈の中身を知る。映画みたいなサイボーグは実在しない。人間がサイボーグになろうとしているだけだ。そうしなければ生きられない人の手は、こんなにも冷たい。


 陽奈の手もほんのり暖かくなってきたころ、彼女はにっこりと笑った。舞衣の記憶にある、自分に自信のない陽奈の笑顔だった


「これで元気出た。言われた通り、素直に謝ってくるよ。仁島さんは尊敬してるから、このままお別れは嫌だもん」

「あ……」


 陽奈が手を放す。行き場を失った舞衣の手が思わず陽奈を追ったが、すぐに引き返して膝の上へと戻した。


「ごめん、陽奈」


 体温の代わりに言葉で届ける。今度の「ごめん」は、思っていたよりもずっと軽かった。


「あたし、フォレストの正社員になる。東京にはいかないし、女優にもならない」


 陽奈がはっきりと息を飲んだ。みるみる目が大きくなって、瞳が潤った。


「それは嘘だよ」


 振るえる唇で彼女はさえずる。感情と表情が定まらず、顔の肉がひきつる。そのズレの隙間から、舞衣は『籠目陽奈』の皮を脱ぎ捨てた、あの日のひな鳥を確かに見た。


「本当だよ。次の出社の時に正式に返事をするつもり」


 もう一度はっきりとそう告げる。曖昧な言葉は陽奈の心を惑わす。その戸惑いが、彼女の心を籠の中に閉じ込めてしまうのだ。

 彼女と話すとき、舞衣はいつだってゼロかイチかで語り聞かせていた。


「嘘だよ。舞衣ちゃんがそんなことするわけない」


 陽奈が強い口調で否定する。


「するわけないって、現にそう――」

「舞衣ちゃんが、一度決めたことを中途半端にするわけがない!」


 陽奈の叫びが響く。舞衣は口を開いたまま固まってしまった。


「陽奈の夢なんだよ。舞衣ちゃんの隣に並んで、おんなじ景色を見るってこと。舞衣ちゃんが夢を叶えなきゃ、陽奈の夢も叶わないよ」

「勝手に……人の夢を自分の夢にしないでよ」

「じゃあ陽奈、何で一人で頑張ってたの? 舞衣ちゃんも、家族もいない東京で、五年間何をしていたの?」

「スクリーンの向こう側で、スターになったじゃない」

「欲しいのはそれじゃない!」


 陽奈が断言する。


「それなら陽奈もこっちに残りたかった! お母さんとお別れした陽奈ちゃんを、隣で支えたかった! 高校は一緒になって、毎朝一緒に登校したかった! お弁当とか食べたかった! 放課後、一緒に映画を観て帰りたかった! やりたいことが沢山あった!」

「だったら、そうすれば良かったじゃん!」


 舞衣の中で渦巻く想いが爆発する。それがきっと、魔女が最も好む甘い蜜だとしても、止められなかった。


「あたし、行かないって言ったよ? それでも東京行きを選んだのは陽奈だよ? あたしの叶えられなかった夢を追ったのは陽奈だよ!」

「陽奈は舞衣ちゃんみたいに器用じゃないから……何倍も努力しないといけないから……先に行って待ってようって思ったの! 舞衣ちゃんはきっとすぐに追いつくから。その時、置いていかれないようにって!」

「いや、でも――」

「だって『夢を諦める』なんて、あの時の舞衣ちゃん、一言も言わなかった!」


 あらゆる想いがその一言に打ちのめされた。代わりに舞衣の頭の中をめまぐるしくかけめぐるのは、あの日――母親の葬儀の記憶だ。


――ごめん、あたし、東京に行くのやめる。


 舞衣は確かにそう告げた。ごめん。三つの言葉から始まる決意を陽奈へと伝えた。

 母親を失い、夢と現実の瀬戸際に立たされ、ようやく口にできた親友への謝罪の言葉。それ以上を口にするのが、悔しくて、悔しくて、叫びたいくらいにたまらなかった。


 夢を諦めなければならない自分と、夢を諦めたくない自分。その狭間に舞衣は立っていた。

 あの時は、それが精いっぱいだった。


「あたしが中途半端だったせいだっていうの……?」


 縋るように舞衣は陽奈へと尋ねる。陽奈は泣きながら、首を横に振って、そして笑った。


「舞衣ちゃんはいつだって真っすぐで、いつだって正しいよ」


 陽奈の語る『舞衣』は、あの日あの時から何一つ変わっていない。

 それはきっと、彼女の中の魔女が唱えた、時間を止める魔法だった。


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