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第19話 

 クリスマス、年末、年始と忙殺されているうちに、あっという間に三が日が過ぎていた。その間、社員登用について催促されることはなかったが、舞衣の心中は悶々とした気分で繁忙期を過ごすことになった。

 社会人の先人である父親にも軽く話をした。父親は娘が会社に評価されたことを喜んだうえで、「よく考え、自分で決めなさい」と、具体的なアドバイスをくれることはなかった。突き放されたような気がして少し寂しかったけれど、言う事はもっともだ。契約書にサインをするのは自分なわけだから、その意思を誰も左右することはできない。

 世間の正月休みが過ぎれば、いよいよ繁忙期は終わる。今年は話題作もなかったので、軽い閑散期に差し掛かるだろう。舞衣はいよいよ返事を考えなければならなくなった。


「催促じゃないんだけどね。書類も作らないといけないし、軽く面接もあるし、今月中には返事をくれるとうれしいかな」


 久しぶりの穏やかな平日。出社するなり、舞衣は横尾にそう声をかけられた。


「すみません」

「焦らないでいいよ。実際、藍田ちゃんはウチにはもったいないとは思ってるし……これってフォローになってる?」


 その時の舞衣があまりにしんみり謝るものだから、むしろ横尾の方が慌てて彼女を元気づける。余計な気を使わせてしまったと、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


「正社員のお話があるんですって?」


 ぼんやりシアターの掃除をしていると、ふわふわとアマネがすり寄ってくる。


「なんか、久しぶり」

「年末年始は子供が多いから。気が利くと思わない?」

「常にそうあって欲しいものだけど」


 胸を張ったアマネに、舞衣はいつもの調子で答える。年末まではうざったく感じていた彼女のちょっかいも、今にいたってはどこかありがたい。無性に誰かと話がしたい気分だった。


「それで、OKするのよね?」

「ううん……」


 当たり前のように問うアマネ。舞衣はどちらとも答えられず、言葉を濁らせる。


「むしろ、OKしない理由はあるの?」

「細かく考えれば理由はいくらでもあるけれど」


 給料が安いとか。キャリアアップは望み薄とか。そもそも潰れないにしても、映画館という存在自体が先行き不明瞭だとか。人生を託すうえでの不安はある。


「でも映画も、映画館も好きでしょう。職場としては合ってると思うけれど」


 それは舞衣自身も思っている。映画好きでなければ、映画館職員を長く続けることはできない。それが待遇を譲歩できる理由になるわけではないが、受け入れる前提条件ではある。そういう考え方は、どんな業界だって変わらないのかもしれないが。

 もし正社員として就職したならば、会社が倒産しない限りはここで働き続けている自分の姿が容易に想像できた。幸い実家暮らしだから、給料が安くても生活に困ることはない。光熱費と食費という名目で何万円かを実家に入れていても、だ。


「私も話し相手がずっと居てくれたら嬉しいわ」

「どこにだって飛んでいけるくせに。それに正社員にならないからって、辞めるわけじゃないし」

「じゃあ、何に迷っているの?」


 話は堂々巡り。だが一周するまでアマネと話してみて、ひとつだけそれらしい問題に心当たりを得る。


「たぶん、今の生活で十分満足してるから、『今以上』って考えにピンとこないんだと思う」


 予想外の理由だったのか、アマネは目をぱちくりさせて唸った。


「向上心がないのね」

「そういうわけじゃないと思うけど」


 実家暮らし。映画を観るのが趣味。映画館も好き。舞衣の人生は実家と映画館の往復で完成されている。服を買ったり、美味しいものを食べに行ったり、副次的な興味はもちろんある。でも、それらに高級なものを求める気持ちはさらさらない。贅沢もたまにで十分だ。


「じゃあ、舞衣にとっての人生の目標は何なの?」


 人生の目標。なんだか急に話が大きくなった気分で、舞衣は思わず吹き出してしまう。


「どうしたのいきなり」

「なによ。せっかく親身になって考えてあげているのに」

「ごめんて」


 笑いながら謝ると、アマネはすぐに機嫌をなおした。こういう単純なところは余計な気で疲れないからいいと舞衣は思う。


「とりあえずお金でしょ。生きていくのには必要だし」

「でもさっきの話を聞いていると最優先ではなさそうだけれど」


 お金が欲しいなら、正社員は喜んで受ける。確かにその通りだ。微々たるものでも、今よりは給料も上がる。それをしていない時点で、舞衣にとっての優先事項はお金ではないということになる。


「じゃあ趣味ね。でも映画って何の仕事してたって楽しめるわよね」

「年間で二五〇本以上見てるらしいから、社割は助かってるけど」


 舞衣は、ざっくりと頭で電卓をうった。二五〇本以上をちゃんとお金を払っていたら――サービスデイを駆使しても年間三〇万は掛かるか。なるほど、手取り十数万の収入で捻出するのは少々きつい。パンフレットや飲み物を買ったらさらに増えるわけだし、他の出費もある。フォレストの職員は言わずもがな映画鑑賞の補助があるわけだが、どれだけそれに助けられているのかを改めて痛感した。


「うーん、それじゃ視点を変えてみましょうか」


 アマネはくるくると人差し指を回して見せた。


「舞衣は、家を出て行きたいとか考えたことはないの?」

「考えたことないかな」


 それは全く疑いようがない気持ち。この街を出ていくという選択肢が、舞衣の中にはまったく浮かんでこなかった。


「……そんなに意外?」


 アマネが面食らったような顔をしているので、舞衣はちょっと不躾になった。眉を寄せて責めるように尋ねると、彼女は顔を横に振って含みのある笑みを浮かべる。


「つまり私は陽奈ちゃんに勝ったのねって、嬉しさを噛みしめてたのよ」

「なんで陽奈? てか、別にあんたを選んでるわけじゃないし。早く成仏してください」

「どんまい、私」

「そこは諦めないでよ」

「それはそれとして」


 アマネは手の動きで「おいといて」と箱をどかす仕草をする。


「陽奈ちゃん、舞衣のことを東京に連れていきたいんじゃないの?」

「は……なんで?」

「それは知らないわ。心当たりがあるなら聞かせて欲しいくらい」

「……なんで?」


 答えが出ないのは分かっていても、繰り返し唱えてしまう。そりゃ本当に、まったく、みじんも心当たりがないと言えば嘘になるが。けれど、もう時効だろう。なにより彼女には――


「一人であれだけ成功できているんだから。もうあたしは必要ないよ」


 それが現実。もう手を引っ張らないと歩けない陽奈じゃない。舞衣が一方的に突き放したことで、陽奈は自分で歩くことを覚えられた。荒療治になったのかもしれないが、今の彼女の姿がその結果だ。舞衣も、それは受け入れているつもりだった。


「陽奈ちゃんは昔っからあんな感じだったの?」


 試すようにアマネが尋ねる。


「身体は成長してるけど」

「そう」


 アマネは舞衣の周囲を一回転する。袖の模様がひらひらとはためいた。


「あの子、本当に役を着こなすのが上手いわね」

「えっと、あの時は聞き流したけど、それ違う……と、思うよ」

「あら、どう違うの?」

「着るんじゃなくって、陽奈の中身がまるっきり役になっちゃうの。あの子の演じる時のクセ、なのかな」

「そう。なら、彼女は立つべくしてスクリーンに立っているんだわ」

「そう、なるべくして」


 それは、魔女が耳元でささやいた、甘い誘惑の言葉。


「舞衣は何か、変わるきっかけがあった?」

「あたしは……」


 自分はあのころから変わったのだろうか。少なくとも高校のころは、大嫌いな「なあなあ」を過ごしていたが、就職を機にそれも変わった。いや、戻った。今に不満がないのもきっとそのためだ。中途半端が大嫌いな自分に戻って来た。


「あったけど、結果プラマイゼロかな。陽奈は東京に行って、プラスに変わったんだね」


 ファンに愛される若手女優。裏表のない、素直でひたむきな美少女。ひとたびカメラの前や舞台に立てば、別人のように役を演じ切る。業界の期待の新生。演じる事すら躊躇っていたころの彼女を知っていると、まさしく映画みたいなサクセスストーリーだ。


 そうこうしている間に掃除は終わり、舞衣は掃除用具を片付ける。

 アマネはそのままここで映画を観ると言い、舞衣だけがシアターを去る。上映されるのは『シリウスを見上げて』。陽奈の演技について言われたことを確認するのだという。そんな彼女の毎日を、舞衣はどこかうらやましいと思った。


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