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第17話

 事務室では珍しく、配人が事務作業を行っていた。彼は舞衣の姿を見ると、横尾ほどではないにしろ目を丸くして驚いた。


「ちょうど映画を見に来たみたいで、時間あるっていうので来てもらいました」

「ああ、そう」


 支配人は一度立ち上がると、舞衣に向かいのデスクに座るよう勧める。おずおずと腰をかけると、彼も座る位置を確かめるように身体をゆすった。

 隣のデスクには横尾が座る。彼女は小さく咳ばらいをしてから、机の上で指を組む。


「さて……良い話か悪い話があるんだけど、どっちだといい?」

「選べるのなら良い話がいいですね。間違いなく」

「なるほど。そうであることを願うよ」


 そう言った横尾の表情には、どこか不安の色があった。口ぶりとは裏腹に思ったよりも真面目な話のようで、くだけきってしまいそうになった態度を改める。


「それじゃあ、私から話そう」


 空気が整って、支配人が口を開いた。心地の良いバリトンボイスの彼は、若いころ駅員をしていたらしい。それがどうして映画館職員になったのかは、舞衣も聞いたことがない。


「今度、ウチの映画館にセルフレジが導入されるようになるのは聞いているかな?」

「はい」


 舞衣が横尾に視線を送ると、彼女は小さく頷き返す。


「この間の会議で正式決定になってね。来年度――と言っても搬入とシステム工事は四月に入ってからだが、レジシステムがまるっきり入れ替わる」

「研修が大変そうですね」

「そうだね。レジの打ち方から会計方法。締めの清算方法なんかも大きく変わる見通しだ」


 一言で言えば、覚えることが山積みだ。話の流れをおおざっぱに理解して、舞衣は頷く。


「それで、ここからが本題だ。移行に関する本格的な業者とのやり取りが年明けから始まるんだけれどね、それを藍田君にお願いできないかと思ってね」

「それは、構いませんが」

「ああ、返事はもうちょっとだけ待ってもらえるかい」


 仕事なら、と二つ返事で頷きかけたところを支配人はやんわりと制する。


「ここからが横尾君が『いい話か悪い話か』って言っていたところなんだけどね。藍田君、正社員になる気はないかい?」


 それは、疲れ切った舞衣を追い打つにはに十分すぎる提案だった。支配人の言葉が他人事みたいに頭の中に響く。


「……あたしがですか?」

「藍田君の仕事ぶりは真面目だし、丁寧で粗がない。それになにより映画が好きでこの仕事をやっているのを、私は評価しているつもりだよ」

「それは、ありがとうございます」

「この会社では正社員に初年度五〇本、二年目からは一〇〇本の鑑賞ノルマを課していてね。DVDや配信サービスでなく映画館でだ。ちなみに横尾君は今年何本かな?」

「えっ!?」


 振られると思っていなかったのか、横尾は飛び上がって狼狽える。


「ええと……一〇三です。今年はギリギリでした」

「かつては三〇〇本を見た横尾君も、めっぽう忙しくなってしまったからね」

「すみません」


 横尾は苦い顔で頭をかく。むしろあれだけ働いていて一〇〇本も観てしまう方がすごいだろう。


「舞衣くんは、今年はどのくらいかな?」


 尋ねられてふと思い返してみるが、はじめから数えていない数字がぱっと思い浮かぶわけがない。レンタルショップから借りてきたり、母親のコレクションを漁ったりした分も含めれば、それこそ。


「数えてないです」

「二五七本。アニメ映画にも興味があれば、昔の横尾君に迫るかな?」


 代わりに支配人が答える。社員証のデータを見てきたのだろう。何本見るかなんて気にしたことがなかったので、ある意味新鮮な情報だ。


「もちろん、本数でどうこうというわけじゃない。その前向きな公私混同を評価したいんだ」


 前向きな公私混同。どういう意味なのか舞衣ははかりかねたが、趣味を実益とする、みたいなことだろうと思っておく。


「もともと正社員を増やそうという話はあったんだ。この劇場は横尾君の負担が大きくてね。彼の入社時はもう一人の正社員がいたんだが、辞めてしまったものだから。私も本店と掛け持ちで常にいるというわじゃない」

「あの……」


 話の腰を折るようだが、舞衣はスッパリと言葉を挟む。


「少し、考える時間を貰っても良いですか。もちろん、ありがたい話だとは思っています」


 少なくとも長時間の運転でぼやける頭でする決断ではない。舞衣がそう答えると、支配人は笑って頷いた。


「もちろん。目の前の話だけではないだろうから、しっかり考えて、良い返事をくれるのを期待しているよ」


 そう語った彼に、その時の舞衣は何も言い返すことができなかった。


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