目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報
第16話

 陽が沈む前にその日の撮影は終わった。明日は未明からのスケジュールだそうで、今夜は早めに休むらしい。急な来訪であるにも関わらず、快く対応してくれたスタッフたちへ舞衣はお礼を言って回る。


「筒井さんの相手、大変じゃなかった?」

「ええ、まあ。慣れましたから」


 帰り際に声を掛けてくれた仁島に、舞衣は恐縮して答える。その言葉に安心したのか、彼女の表情は一瞬で笑顔に切り替わる。数多の現場を過ごしたのであろう、大人の笑顔だった。


「いきなりなのに、堂々としていて良かったわ。あなたも一緒に役者を目指せば良かったのに」


 一緒というのが「陽奈と一緒」だっていうのは、言われなくなって分かっていた。舞衣は、曖昧な愛想笑いを浮かべることしかできなかった。そもそも、完全に頭が真っ白になっていた演技を良かったと言われて、どうコメントをしたらいいのか分からない。


「公開されたら観てくれると嬉しいわ。いい映画になるから」

「ぜひ」


 そう返すしかないことに一抹の罪悪感。


「本当は観ないくせにね」


 すかさず耳元で囁いたアマネに、舞衣が視線だけで抗議すると、彼女は宙返りをしながらどこかへ消えていった。


「あれ? 舞衣ちゃん、帰っちゃうの?」


 すっかり身支度を整えた舞衣の腕に、陽奈が飛びつく。舞衣はよろめきながらも、全身で彼女を抱き留めた。


「ごはん食べていきなよ。オーナーさんのフレンチ美味しいんだよ。お酒さえ飲まなきゃいつでも帰れるでしょ?」

「夜道を運転したくないから明るいうちに帰るよ」

「うー」


 陽奈は不満そうに頬を膨らませる。やがてしぶしぶと腕を解放して、代わりに舞衣の手を取った。


「来てくれてありがとう。おかげで元気出たよ」

「あ……うん。頑張って」


 言葉を選ぶ暇もなかったが、陽奈はそれで満足したのか、いつもの人懐こい笑顔で手を離した。両手を振る彼女に見送られて、舞衣はすっかり冷え切った運転席に乗り込む。


「帰りはスマートにお願いね?」


 アマネが先に助手席で待っていた。どこでこさえてきたのか、雪玉を器用にお手玉する。どこまでもマイペースな彼女に、舞衣はふと問いかけた。


「私の演技、どうだった」

「完璧なエキストラだったんじゃない?」

「そっか、ならいい」


 おもむろに韻を踏んでシフトレバーを入れる。ぎゅっぎゅと、タイヤが雪を踏みしめる感触がお尻に響いた。


 籠目陽奈には二つの絶対がある。一つは舞台の上では絶対に自分を出さないこと。そしてもう一つ――手を握って話す彼女は絶対に嘘をつかないこと。

 運転をはじめてまだ数分と経ってないのに、身体はすっかり冷え切ってしまっていた。エアコンはまだきいていない。だけどハンドルを握る手には陽奈の温もりが残っているような気がした。


 へろへろになって山を降りて来たころには、街はすっかり夜の光に包まれていた。冷やされた空気が目に見えない雫になって、街灯や車の輝きが十字架みたいに細く伸びる。

 舞衣は街に入ってすぐのコンビニに車を停めた。冬だと言うのにすっかり喉が渇いていた。ホット・カフェ・ラテのカップを買って、マシンにセットする。引き立ての豆の香りが辺りに漂ったころ、スマホが震えた。

 さっきの今で陽奈かと思って、確認するのをちょっとためらう。しかし、通知の主は父だった。内容は残業が入ったので食事に行けないこと。後でお金を出すから、どこか良いところに食べに行ってこいと言うことだった。

 舞衣は「お仕事頑張って」とだけ返して、怒ってない事を伝えるために適当に和みそうなスタンプも添えた。

 出来上がったカフェ・ラテを持って、舞衣は車の運転席に腰を埋めた。ひとりでごはんを食べに行くような気分ではなかった。胃がムカムカして、とても固形物を飲み込める状態じゃない。最後に食べたのが好みに合わなかったラーメンというのが癪だが、ダイエットにはちょうどいいと割り切った。

 家に帰っても特にやる事はないものの、磨いたばかりのお風呂にゆっくり浸かるというのもいいかもしれない。オーガニックなコスメショップで、気になっていたバスボムを買って帰ろう。少しだけ気分が上向きかけた時、着信通知が光る。

 今度こそ陽奈からだった。


「出ないの?」


 震え続けるスマホは助手席、アマネの尻の下にある。画面の光で下からライトアップされて、彼女の表情が闇の中にぼんやり浮かび上がっていた。ベタなホラー演出だ。

 舞衣はスマホを手に取るが、通話することなく再び助手席へと放り投げた。まだ運転していることにしよう。表示された緑と赤のボタンが、「お前が何をしているのか知っているぞ」と語りかけているようだった。

 陽奈は根気強かったが、やがて待機時間いっぱいになって通知が止む。それから再着信がある前にスマホを拾い上げて、マナーモードをサイレントに切り替えた。

 上向きかけた気持ちがすっかり傾いていた。こういう時は――そうだ、映画を観るに限る。舞衣は、静かに車を走らせた。

 見る映画は何でもよかった。どうせ公開中のものはほとんど観た後だし、何も考えずにスクリーンを見つめていられたらそれで良かった。

 職場について駐車場に車を停める。見慣れた外観が、お客として来るときは全く違って見えるのはなぜだろう。これから仕事かどうかというストレスが、脳内麻薬を分泌させているのかもしれない。


「送ってくれたの?」

「そんなわけないでしょ。用事だよ」

「あらそう」


 アマネはロバート・デニーロみたいに大げさに肩をすくめてみせる。けどすぐに穏やかな表情にもどって、シアターの方へと飛んで行った。


「今日は久しぶりに外に出て楽しかったわ。またお出かけしましょう」

「お断り」


 小さな背中に向けて「いー」っと歯を見せ追い立てる。

 舞衣はひと心地つけてから、社員証を取り出してチケットカウンターへと向かった。彼女の姿に気づいて、カウンターに立ってた横尾がみるみる目を見開いた。


「おー、藍田ちゃん。グッドタイミング」


 オーバーリアクションは、少なくとも深刻な話題ではないことの表れだ。しかし今日一日、別のヤツのオーバーリアクションを往復六時間も隣で見せつけられた舞衣は、食傷気味に唸った。


「応援シフトなら入りませんよ」

「それは見ての通りの閑古鳥。映画?」

「これって決めてきたわけじゃないんですけど、今から何かあります?」


 カウンター頭上の上映時間一覧を見上げて尋ねる。横尾はピクリと眉を跳ね上げると、試すような目で舞衣を見た。


「観たいのあって来たんじゃないなら、今ちょと時間あるかな?」

「ええ……まあ」


 意図を測りかねて、舞衣はあいまいな返事してしまう。横尾は他のスタッフに声をかけてカウンター業務を代わって貰うと、舞衣をつれて事務室を目指した。



コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?