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第14話

 慣れた作業ほど時間をかけるのは難しい。いつもより懇切丁寧に家事をこなした舞衣だったが、お昼前には家じゅうすべからくピカピカに磨き上げてしまっていた。お風呂場の天井から換気扇、果てにはエプロンまでやり尽くす年末の大掃除。それらも終わってしまえば、リビングで湯気の立つ紅茶を手に心頭を滅却するしかなかった。

「徹底的すぎてケチのつけどころがないわ。逆にヒくわ」

「そりゃどうも」

 嫁と姑ごっこがやりたかったらしいアマネは、気持ち居心地が悪そうにその辺をくるくる飛び回っている。部屋全体にほんのり薫る、安らぎのミントフレーバー。舞衣は消臭剤の「空間消臭」というやつをいまいち信用していなかったが、これを機に考えを改めた。

「……なにやってんだろ」

 時計を見れば十一時。一息つけばお昼ご飯の時間だ。そう言えば、旧道に新しいラーメン屋さん建ってたっけ。あ、でもダイエット……いいや、今はなんだか食べたい気分だ。四時間近く家中を駆け回って、お腹はぺこぺこである。

「そろそろ出ないとお昼過ぎちゃうわよ」

 アマネが急かすように耳元で訴える。

「……出るかぁ」

 ご飯にでかける。それを言い訳にして、ようやく重い腰を持ち上げることができた。


 結論から言うと、新しいラーメン屋は舞衣の好みではなかった。

 魚粉たっぷりの『濃厚』という名を借りた粉っぽいスープは、最初の一口にこそ美味しさが凝縮されているように感じられたけど、後味のエグみと共に、すぐに飽きてしまった。やはりなんだかんだでノーマルの中華そばが一番。昔懐かしい蕎麦屋の出前ラーメンが恋しい。

 やたらメンマが好きだった当時の舞衣に、両親がいつも自分のを分けてくれた。代わりに父親にチャーシュー、母親にナルトをあげるのだが、それに対して母親は毎回「たまには私もチャーシューが欲しい」とゴネていた。でも、なんでか父チャーシュー、母ナルトの方式は変えたことがない。目に見えないフォースが働いていたのかもしれない。


 車のナビをセットして、舞衣は約束のペンションを目指す。街乗りばかりだった彼女にとって、山道の運転なんて免許講習のとき以来だ。

 冬という季節は降雪という素敵なおまけまでつけてくれた。山の天気はふもとと違うと言うが、街でのスッキリした晴れ模様が嘘のようだ。それが一層景色を不明瞭にするので、いつの間にか法定速度をずいぶんと下回る徐行運転で、つづら折りの峠を上へ上へと向かって攻めていた。

 こんなとこ誰も来ないだろうってくらい辺鄙な場所なのが幸いしてか、他のの車には出会っていない。思う存分、安全運転を。ドミニクに習ってワイルドなスピードを謳歌することは、今後一生あり得ない。

 とりわけ母親を交通事故で失っていることもあって、藍田家のふたりは、普段からお手本みたいなマニュアル通りの運転が染みついている。

「自転車だってもう少し速いんじゃない?」

 アマネは助手席で正座をしながらのんきにお茶をすする。よく見ると浮いているし、車の揺れに一切動じないし……これは、同じ速度で飛んでるだけなのだろうか。『恐怖! 茶をすする時速二五キロの少女の怨念』――いまいち怖くないどころか、ほとんどコメディだ。

 でも世の中には『事故か! 変死か! 4つの命を奪う少女の怨念』なんて、Z級なサブタイトルをつけられた傑作ドラマも存在するのだから分からない。後にJホラーという看板を全世界に向けて叩きつける、山村貞子大先生の業界デビュー作である。探すのに苦労してようやく手に入れたVHSで観た舞衣は、映画版よりこっちの方が好きかもと思ったものだった。より湿っぽい演出と、常に全裸で登場する貞子が記憶に深く刻み込まれている。

 そんなこんなで目的地についたのが午後の二時半。ラーメン屋から実に三時間近い運転で、身も心もへとへとだった。

「いいところね。殺人事件でも起こりそう」

 疲れ知らずの幽霊は、さっそく車から飛び出して雪の上を飛び回った。白と赤のコントラストが照り返しにまぶしい。


――ついたけど。


 舞衣は建物の正面に車を停めて、車内からメッセージを送る。緑色の壁をした純洋風のペンションは、しんと静まりかえっていた。

 標高のせいか積雪はひどく、屋根の上で溶けて、固まって、その上からまた積もってを繰り返した雪が、ミルフィーユみたいな層を成している。駐車場の一角には、今朝片付けたのだろう、まだ柔らかい雪が山のように積み上がっていた。その斜面を、真っ赤な着物が音もなく滑る。きゃっきゃとはしゃぐ声だけを聞いていると、まんま子供みたいだった。

 暖房の効いた車内で待つこと数分。返事が来ない。夜中や早朝はあんな頻度で送ってくるくせに、こういう時に限って返事がないなんて――と、舞衣は半ば不貞腐れながら冷めた缶コーヒーに口をつけた。寒いし、疲れたし、もう帰ってやろうかと思ったが、帰りまた同じ道を引き返すことを思うと、頼むから返事をくれという思いの方がほんのわずかに勝る。

 もう少しだけ。あと五分だけ。いや、もうあと三分だけ待とう。そうやって二〇分くらいが経ったころ、待ちわびた着信がやってきた。すぐに取るとがっついた感が出て恥ずかしかったので、何コール分かおいてから電話に出る。

『もしもし、舞衣ちゃん? 今どこ?』

「ペンションの正面にいるけど」

 待たされた反動か強い口調で答える。陽奈の後ろからガヤガヤと人が動く気配があったが、少しずつ遠ざかっていった。

『えーっと……あっ、いたいた!』

 ペンションの玄関が開き、陽奈が顔を出して手を振る。舞衣は通話と一緒に車のエンジンを切って外に出た。

「とんでもないところに呼んでくれたね」

「良いところでしょ?」

 舞衣のストレートな抗議をひらりと躱し、陽奈は悪びれる様子もなく笑った。案内されて入ったペンションは、全館床暖房が効いているのかエントランスから暖かい。

 ふと外に目を向けると、アマネは相変わらず雪の上で飛んで跳ねてを繰り返していた。勝手に楽しむ分には害はないので、そのまま放っておくことにする。

 一方の陽奈は上下揃いのスキーウェアにニット帽、ゴーグルと、完全にスキー客の装いだった。似合ってはいるのだが、この暖かさからすれば少々やりすぎにも見える。

「あ、陽奈ちゃん。そろそろ休憩終わりよ――って、誰?」

 廊下を通りがかったセーター姿の女性が、陽奈に尋ねる。舞衣はその姿を見て思わず足がすくむ。目の前の女性が世間では「二時間ドラマの女王」と呼ばれていることを、彼女が知らないはずがなかった。

「ごめん。邪魔になるから帰る」

 流れるように踵を返した舞衣だったが、その腕を陽奈ががっちりとホールドした。

「仁島さん、紹介します。親友の藍田舞衣ちゃん。地元で同じ劇団だったんです」

「親友って……ああ、まず初めまして。仁島です。えっと、分かるかしら?」

「ああ、はい。それはもう。お会いできて光栄なのですが」

 戸惑った様子の女王を見て、舞衣は自分が招かれざる存在であることを理解する。これが魔女の仕業なら、仕込まれた毒はとっくに致死量だ。

「陽奈ちゃん。私、あなたのこと、しっかりした子だと思っていたのだけれど……」

 仁島は声のトーンを落として、諭すように陽奈へと語る。しかし陽奈はあっけらかんとして、舞衣を腕ごと自分の方へと引っ張った。

「監督の許可はとってます」

 融通が利かない彼女に仁島はすっかり困った様子で、申し訳なさそうに眉を寄せる。

「ごめんなさいね。せっかくこんな場所まで来てもらって、気を悪くしないで欲しいのだけれど……お仕事の現場だから、ね。分かってくれると嬉しいのだけれど」

「もちろん分かってます。すぐ帰りますから、安心してください」

 舞衣は、全身全霊全力で理解を示す。なんで大女優を前に、こんな事務的な会話ばかりしなければならないんだ。別の機会なら、黄色い声をあげて喜んでTシャツにサインでも貰うのに、なんて本人の前で口にできるわけもない。

 とにかく一刻も早く立ち去りたい思いだったが、腕をホールドする陽奈の力は思いのほか強く、ちょっとやそっとじゃ抜け出せそうにない。仁島もそんな状況を察して、それ以上は何も言わなかった。

「あ、いたいた。仁島さん、籠目さん、撮影始まりますよ――って、何やってんです?」

「あの、監督って時間をありますか?」

「え? ああ……まあ、監督が良いって言えばね」

 スタッフもまた歯切れの悪い返事。今のこの場で自分の存在が迷惑以外の何物でもない。ストレスだけが、向ける矛先を見失って舞衣の中にどろどろと溜まり続けていた。

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