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第13話

 朝、舞衣はスマホのアラームで目を覚ます。音量マックスで鳴り響くベルは、高校時代から一度も変えていないプリインストールのクラシック音楽だ。曲名も作曲者も知らないけれど、運動会でよく流されているイメージがある。出だしからジャンジャカうるさいのが目覚ましにはちょうど良いので愛用している。

 スヌーズを切ったスマホを握りしめて、ベッドからずるずると這い出す。パジャマごしに突き刺す冷気は、この時期一番の眠気覚ましだ。ぶるっと一度身震いをしてから、床に投げ出されたもこもこのフリースを摘まみ上げた。

 朝が比較的得意なのは、中学時代の陸上部のおかげだと考えていた。外競技であるおかげか、特に夏休みなんかは、涼しい早朝から開始して、陽が高く登る前に終わるなんてスケジュールが多くを占める。それに加えて劇団に入っていた舞衣は、稽古のある曜日に欠席や早退をさせてもらえるよう、積極的に普段の朝練にも参加していた。培われた生活サイクルは、部活を辞めて高校に進学しても変わらなかった。アラームにセットされた五時三〇分の表示は、これまで一度も弄ったことがない。

 真っ暗なリビングに照明をつけて、ひとまず暖房を入れる。玄関の新聞をとってダイニングテーブルへ滑らせると、ポケットからスマホを引っ張り出した。

 表示されたメッセージアプリの通知をフリックで消して、起動するのは音楽プレイヤーアプリ。今日の気分は何だろう。リビングのど真ん中で天井を見上げて、やがて『ゴーストバスターズ』のサントラをランダムで再生した。

 真っ先に流れたテーマソングにちょっと気分を良くして、舞衣は口笛交じりに冷蔵庫の扉を開く。昨日のうちに詰めておいた弁当箱を取り出し、一緒に卵とトマト、ブロックベーコン、あと作り置きの温野菜タッパーを次々と取り出していく。

 弁当はそのまま常温に戻すため放置。下茹で済みのニンジンとブロッコリーをまな板に転がして、他の食材と一緒に一口大に刻む。それを解いた卵にざっくりまぜてから、塩コショウとガラムマサラをぶち込んで、熱したフライパンへと落とした。

 油と水分が喧嘩する音をBGMに乗せて菜箸で手早くかき混ぜる。ころ合いを見て、表面の半熟を包むようにして整形。蓋をしてほどよく蒸し焼きにしたら、あっという間にカレー風味のスペインオムレツが完成だ。

 舞衣はもう一個を焼き上げて皿に盛ると、それぞれからひと口サイズずつ切り出して、お弁当箱の空いたスペースに詰め込んだ。気付けは時計は六時を回っていて、リビングに寝起きの父親が顔を出す。

「おはよう」

「おはよ。ちょうど焼けたとこだよ」

 テーブルに二人分のオムレツを並べて、炊きたてのご飯を茶碗と、これまた弁当箱によそう。味噌汁はレトルトに乾燥わかめを足した即席使用だ。

「いただきます」

「いただきます」

 ほぼ同時に手を合わせて、味噌汁のお椀を手に取る。かじかんだ手に温もりを感じながら、熱い汁がお腹に流れていく至福の瞬間。冬の朝の一口目には、どうしようもなくこれが欲しくなる。レトルトとはいえ、藍田家はこの時期の朝の味噌汁を欠かしたことがない。

「今日も仕事か?」

「いや、休み」

「そうか」

 父親はそれだけ答えて、オムレツを口に運ぶ。

「今日は早く帰れると思うから、どこかに食べに行くか?」

「いいよ。久しぶりだね」

「なかなか時間が合わないからな」

 舞衣の父親は、県内の都心部にある商社に勤めている。都心とは言っても、田舎県の県庁所在地だが。この町に生まれ、県内の高校、県内の国立大学と進み、そのまま県内企業に就職。絵に書いたような、地元に根差した人生だった。

 それでもリストラ問題、経営悪化、倒産疑惑、買収、グループ化といった荒波を乗り切って、今では取締役レベルではないにしろ、それなりのポストについている。ひとえにその実直さゆえの成果だろう。勤続約三〇年のうち、遅刻欠席は一度もない。記録に残っている休みは、祖父母と妻の忌引きだけなのが彼の自慢だ。

 中途半端を良しとしない舞衣の性格は、間違いなく父親譲りと言える。そんな父親の何に母親は惚れたのだろう。舞衣も気になるところではあるが、答えてくれる人はもういない。

 父親は先に食べ終えて、食器を洗浄機に並べる。その後、棚からごみ袋を取り出して舞衣へと向き直った。

「部屋に捨てるものがあったら出しておきなさい」

「あー、今日は大丈夫かな」

 返事を聞いて、父親がリビングを出ていく。ちょっと遅れて食事を終えた舞衣は、食器を洗浄機にかけてから、お気に入りのマグカップにティーバッグで紅茶を準備した。IMF(インポッシブル・ミッション・フォース)ロゴの入った、劇場オリジナルグッズで、職権を乱用して取り置き購入したものだ。

 色が出るまでの間、スマホを取り出してメッセージアプリを開く。先ほど消した通知の代わりに、『籠目陽奈』の名前の横に赤丸で「9」と表示があった。

 白状すれば、会社で横尾に言ったことは嘘だ。連絡先を交換してからというもの、毎日のように陽奈からの通知がやまなかった。まるでこの五年間を埋めるかのように、彼女にとって話題は尽きないようだった。

 既読無視というやつがするのもされるのも苦手な舞衣は、陽奈からのメッセージひとつひとつに律儀に返信していた。ただいかんせん頻度がもすごいものだから、ここ最近はついに未読無視というやつを覚えた。トーク画面を開くのは日に数度だけ。その間の通知は全て放っておけば、たいてい最後に届いた話題にだけ答えれば話はつながる。

 最新の通知は昨日の深夜。さっさと寝なさいよ、と呆れながら内容を確認した。


――次のオフっていつ?


 舞衣は『今日』と端的に返事をした。

 冷蔵庫からベリージャムの瓶を取り出してマグカップのもとへ戻る。固い蓋を何とか開けてスプーンを突っ込んだところで、スマホが震えた。陽奈からの返事だった。

「起きてんの?」

 誰も居ないのに思わず突っ込みを入れてしまう。直前のメッセージはほんの三時間前なのだけど。疑問は尽きないが、人のことは言えないのでそれ以上考えないことにする。


――じゃあ、ここにきて!


 すぐに次のメッセージが画面に流れる。地図アプリのリンクらしいそれに、ざっくりとしたサムネイル地図が表示された。

 どこだ、ここ。指定されたのは、ペンションか合宿所みたいな宿泊施設のアドレスだ。ただ、それ以外周辺に建物らしきものがなければ、そもそも道もない。どうやって行けばいいというのか。仕方なく、地図を広域化していく。徐々に周辺の情報が増えていくにつれ、そこが県境の山中であることが分かった。

「いや、どこだよ」

 もちろん地図上の場所は分かったわけだが、そういう問題じゃない。返事は一旦置いておいて、舞衣は瓶から山盛り三杯のジャムをマグカップに投入する。ゆっくりとかき混ぜると、甘酸っぱい香りが湯気に乗って気分を満たす。

「デートのお誘いかしら?」

「んぐっ……!?」

 ひと口目からむせかえる。完全にリラックスモードに入っていた舞衣にとっては、完全な不意打ちだった。

「そんなお化けでも出たみたいに。傷つくわ」

 リビングの天井付近を、アマネがふわりふわふわ飛び回っていた。舞衣は目を見開いて、震える指で彼女を指さす。

「なななな……なんで、あんたがここにいんの!」

「来ちゃった」

 可愛い子ぶるアマネを睨みつけながら、とにもかくにも机の上にこぼした琥珀色の雫をふき取る。

 なんでウチに?

 どうやって場所を?

 頭の中を、疑問が幾重にも駆け巡る。

「っていうかあんた、映画館に居ついてんじゃないの?」

「冷静に考えて、一〇〇年も前からあの映画館ある?」

 ド正論にぐうの音も出なかった。だが納得できたところで、それとこれとは話は別だ。どうしたものかと思案していると、今度はスマホが着信で震える。送り主は陽奈だった。舞衣は指先で手繰り寄せて、通話ボタンをタップした。

「もしもし……?」

『おはよー。舞衣ちゃん、早いねー』

 耳に当てたスピーカーの先から、寝起きっぽい間延びした声と衣擦れの音が響く。

「あんた、夜中にメッセージ寄こしてたでしょ。ちゃんと寝たの?」

 舞衣はちょっと責めるように陽奈へと問いかけた。アマネが反対側からスマホに耳を当てようとするので、舞衣は咄嗟にポケットに手を突っ込む。しかし悲しいかな。部屋着にプロトンパックは装備されていない。

『寝たよー。三時間くらいかなぁ』

 陽奈は言い切る前に、受話器の先で大あくびをする。

『あー、ビデオ通話にする? 今ならー、籠目陽奈の未公開ショット提供中だけどぉ』

「馬鹿言ってないで顔でも洗いなよ。こっちも今……このっ……忙しいんだから」

 舞衣が張り付くアマネを振り払う姿は、当然、陽奈には見えていないだろう。まったく緊張感のない、ぽわぽわとした笑い声が響く。

『あははー、舞衣ちゃんお母さんみたい』

 舞衣はどうにかこうにかアマネを振り切って、台所で代わりのお茶を淹れはじめることにした。

『舞衣ちゃんなにしてるの?』

「お湯沸かしてる」

『なーんだ。シャワータイムじゃないのか』

「睡眠足りてなくて馬鹿になってない?」

『舞衣ちゃん、五年で意地悪になったよねー。あ、そうそう、さっきの話だけど』

「何あれ。てかどこ?」

『住所送ったからナビでこれるよね?』

「そういう話じゃなくって」

『あ、ちゃんとお日様でてるうちに来てねー。じゃ、また』

「ちょっと――」

 そこで、電話は一方的に切れた。まったくもって勝手な行動に、目の前のゴk――幽霊の面影が重なる。舞衣は、いっそのこと見なかったことにしてしまおうかと、スマホを視界の外に置いた。それを見透かしたように通知が立ち上がる。


――来なかったら絶交だからね。


 丁寧に語尾にハートマークと、ウインクする猫のスタンプつき。生乾きの古傷を撫でられて、舞衣はスマホを額に押しつけた。

「お天道様の見えるうちですって。あやかしお断りってことかしら?」

「結局、聞こえてんのね」

「幽霊と電波って相性いいのよ。良かったら連絡先交換する?」

「いい」

 したり顔のアマネにさらに頭を抱えて、舞衣は淹れなおした紅茶に口をつけた。ジャムはスプーン四杯分だ。その後ろを、ゴミ袋を抱えた父親が通りすぎる。

「父さん、行ってくるからな。行きたいお店があったら考えておいてくれ」

「……いってらっしゃい」

「どうした。小指でもぶつけたか?」

「……似たようなもん」

 とりあえず洗濯機を回して、布団を干して、掃除機をかけよう。そして部屋中にミント臭の消臭スプレーを振りまくんだ。


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