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第11話

 小学五年の夏。また夏だ。

 舞衣は一人の少女の手を引いて、稽古場のど真ん中を突っ切っていた。


 舞衣が肩を怒らせて堂々と突き進む一方で、少女は半ばつんのめって、引きずられるように歩く。正反対の二人の襲来に、隅の方で台本の確認をしていた先生が顔をあげた。

「舞衣さん、陽奈さん、どうしましたか?」

 小さな来訪者に対して、彼は学校の先生みたいな柔らかで落ち着いたトーンで訪ねる。これが演技指導になると眉間に皺を寄せ、座ったパイプ椅子の縁を丸めた台本でバシバシ叩きながら声を荒げるのだから、人間というものは分からない。

 舞衣は、物怖じせずに眉を吊り上げる。そうして、ひっとらえた犯人を突き出すみたいに、背中に隠れた陽奈の手を引っ張った。


 陽奈が劇団にやって来たのは春のこと。母親に手を引かれて、やって来たのが舞衣の記憶に残っている。とても演劇なんて興味がある様子でなかった。声はぼそぼそ、活舌もしどろもどろで、母親が帰ろうとすると泣いてしがみついていた。

 後に知ったことだが、この劇団は子供のあがり症を克服するためのスクールとして親界隈で有名だったらしい。そんな事情を知らない当時の舞衣は、レッスンに来ているのにまともに活動をしない彼女に、良い印象を持っていなかった。

「自分で言って」

「あ……ううん……その……」

 背中を押す――と言うよりは脅迫するように、舞衣の憤りが陽奈の背中にふりかかる。こういうのは本人の口で言わなければならない。中途半端な解決は誰のためにもならない。だがそれが余計に陽奈を緊張させてしまったようで、詰まったうめき声だけが吐息と一緒にこぼれていた。


 ことの発端は、毎年九月に催される劇団の定期公演だった。

 定期公演は劇団を三つのグループに分けて、それぞれが一作品ずつ、合計三作品を上演する一大イベントだ。うち一つがシニアコース主体で、残りの二つがジュニアコースのもの。ジュニアが二つに分かれているのは人数が多いのと、全員が必ず何かしらの役を貰う決まりになっていたからだった。

 シニアの公演は一般のお客さんも多く訪れるが、ジュニアのお客は大半が団員の保護者たち。つまるところ、子供達の成果を親に見て貰うための発表会という側面が強かった。

 舞衣と陽奈はジュニアの中で同じグループに割り振られた。演目は『ヘンゼルとグレーテル』。先生が演出する児童劇としては十八番とも言える演目で、この舞台で重要な役を貰うということは、子供ながらにとても鼻が高いことだった。だから上級生を差し置いてグレーテルに抜擢された舞衣は、これまでにないくらいやる気に満ちあふれていた。

 一方の陽奈は所属して間もないということもあり、森の小鳥Eの役が当てがわれていた。兄妹が道しるべに散らしたパンを食べてしまう、厄介者だけどどこか憎めない小鳥の一羽だ。登場シーンはたった一度。しかし歌と踊りを交えたミュージカル風で描く、劇の見せ場のひとつとされている。

 稽古の滑り出しは順調――に見えた。大部分で言えば順調だった。陽奈がまったく演技をできない、いや、しないことを除いては。

 口ごもる陽奈に舞衣は無言の圧力をかける。先生も静かに陽奈自身の言葉を待った。

 やっとのことで口にしたとき、陽奈は舞衣の手を痛いくらいに握りしめていた。

「先生……あの……陽奈……お芝居、できません」

「なるほど」

 先生は落ち着いた様子で短くそう答えた。それからゆっくりとしゃがみこんで、うつむいた陽奈の顔を覗き込む。

 陽奈の肩がびくりと揺れ、身体が強張った。

「どうして、できないと感じましたか?」

「……はずかしくて」

「小鳥の役が嫌でしたか?」

 陽奈はちょっと考えた後に、頭を左右に振る。

「お芝居……するのが、はずかしくて」

「陽奈さん自身が恥ずかしいということですね?」

 今度は縦に振った彼女に、先生は再び相槌をうつ。

「言いたいのはそれだけじゃないでしょ」

 いい加減じれったくなった舞衣が、今度こそハッキリと陽奈の背中を押す。陽奈は口をもごもごさせると、やがて泣きそうな顔になって、えずくように胸の内を吐き出した。

「陽奈……やめたい、です。もう……きたくない」

 陽奈の告白に、先生は寂しげな笑みを浮かべる。だが彼はそれを陽奈自身に見せることはなく、舞衣の方へと向けてみせた。

「舞衣さんは、陽奈さんに付き添ってくれたのですね」

「いやなのに続けるのはつらいと思うから」

 舞衣はどこまでも真っすぐな眼で答える。先生は頷いて、もう一度陽奈に向き直った。

「森の小鳥たちはヘンゼルが残したパンくずをのこらず食べてしまいます。そのせいで兄妹は道に迷い、怖い魔女がいるお菓子の家にとらわれてしまう。そんな小鳥たちを、陽奈さんはどう思いますか?」

 突然の問いかけに、陽奈は目に見えてうろたえる。やめるなんて言い出したのだから、「いい」とか「だめ」とか、怒られるとか、そんな不安だけで頭がいっぱいだった。

 そこへ謎の問いかけをされたものだから、真っ白になった頭で一生懸命考えて答える。

「わるいことをした……と思います」

「そうですね。兄妹にとっては、とても迷惑なことでした。では小鳥たちはどうしてパンくずを食べてしまったと思いますか?」

「……たぶん……お腹がすいていたから」

 望んでいた答えが出たのか、先生は先ほどよりもはっきりと頷いてみせる。

「私たちと違って、動物は食べ物をお店で買ったりすることはできません。自分の力で探しまわります。時には何日かかかってしまうこともあるでしょう。そんな中、小鳥たちはおいしそうなパンくずを見つけます。小麦の香ばしくて甘い香りがしたことでしょう。それを食べてしまった事は、小鳥たちにとっていけないことだと思いますか?」

 陽奈はまた少し考えて、首を横に振った。

「舞台に立っているのは陽奈さんではなく、小鳥です。舞台に立った瞬間から、あなたは小鳥なのです。何も恥ずかしいことなんてありません。堂々と美味しくパンくずを食べればよいのです。だから小鳥として、もう一度だけ稽古を受けてみる気はありませんか?」

 陽奈は答えを迷っていた。一度は固まりかけた気持ちが揺れて、何が正解なのか自分でも分からなくなってしまった。陽奈は見失った感情を探すように舞衣のことを見つめる。握った手は、お風呂に入ったあとみたいに熱くなっていた。

「答えはやるかやらないか、でしょ」

 物事に中間はない。舞衣が苛立ったのは、陽奈がそこに立っていたから。嫌なのに続けている宙ぶらりんな想いが、舞衣はひたすらに気に入らなかった。

 やりたくてやるのか、嫌だからやめるのか。たったそれだけの選択を陽奈に示してもらいたかった。

「……やり……ます」

 やがて、消え入りそうな声で彼女は答えた。先生ははじめと同じ表情で微笑む。

「では私も、陽奈さんが素敵な小鳥になれるよう頑張ります」

 それが、舞衣と陽奈がはじめてまともに関わった日だ。

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