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第9話

「ごめん、もう目を開けていいよ」

「あ、うん」

 ずっと目を閉じていたせいか、陽奈はしょぼしょぼした目をあける。照明すらまぶしそうにする彼女に、舞衣は低いトーンで答えた。

「その……アレが出たから」

「アレ?」

「えっと……ゴk――」

「いやぁぁぁぁぁぁ!」

 陽奈は悲鳴と共に舞衣に飛びついた。

「う、嘘でしょ!? だってここ北国だよ! いるわけないよ! いないって言ってよ!」

「大丈夫。もうこらしめたから」

「私って……害虫扱い?」

 陽奈が舞衣の手をぎゅっと握りしめる。舞衣は視線を下げながら、やや歯切れの悪い口調で言った。

 大丈夫。問題の害虫なら、今まさに陽奈が足蹴にしている。というか透けて突き抜けてる。アマネは突然のゴキブリ扱いに少なくないショックを受けているようだが、そんなことは舞衣の知ったことではない。

 心は冬の晴れ模様のように、どこまでも澄み渡っていた。

「で……どうして勝手にスタッフルームに入って来てるの?」

「人聞き悪いな。ちゃんと許可貰ったもん」

 陽奈は唇を尖らせて抗議する。

「あの後ちょっとだけガヤガヤしちゃって……えっと、横尾さん? が、とりあえず休憩室に避難してって。この間、控室だったところだからって」

「何してんのあの人」

「何かあっても責任は私が取る~って張り切ってたよ。あとサインねだられた」

「私も親友だから、もちろん許されるわよね」

 サムズアップでウインクする陽奈の隣で、アマネも同じようにウインクをする。

 責任とってくれるなら、収拾つくまで一人で頑張ってもらおう。普段なら一五分の小休憩のところを、しっかり三〇分とってしまうことを心に決める。

 そういう事だから、と陽奈は向かいのソファーに腰を下ろす。所作にまた目を奪われそうなって、舞衣は視線を反らした。どういうつもりで来たんだろう。あんな、裏切ったみたいな別れ方をしたのに。

 平然とする彼女の心の内が読めずに、空になったスプレーを手の中でもてあそんだ。指先がミント臭い。

「変わったね、陽奈」

「そお? 確かにちょっと派手にはなったかもしれないけど」

 陽奈は自分の服装を見下ろしてから、染めた前髪を指先でいじる。見た目のことだけを言っているわけじゃなかったが、わざわざ口に出すのは億劫で、舞衣は言葉ごと胸のもやもやを飲み込む。

 アマネはというと、ちゃっかり陽奈の隣に正座して、にこにこと相槌をうっていた。

「会うのは三回目ね。舞台挨拶はとても楽しかったわ」

 聞こえているわけがないのに。結構ミーハーだなと、不本意にも保存されてしまったアマネのプロフィールを、記憶のフォルダからごみ箱にドラッグする。

 気分的にも容量的にもそれでいくぶんスッキリする。

「一回目は廊下ですれ違ったのよ」

「そうそう、舞衣ちゃん。昨日会った時、気づいてたのに無視したでしょ?」

「いや、あれは……イベントの準備で忙しかったから」

「えー、すごくショックだったんだから」

「そうよ。挨拶はちゃんとしなさいってご両親にしつけられなかったの?」

「意図しなかった再会って、もうちょっとドラマチックになると思ってたのに……!」

「ちょっと黙っててもらえる?」

「そんな……舞衣ちゃんひどい」

「最低ね。血も涙も大好きなくせに」

「そうじゃなくて……もぉ!」

 舞衣は場を制するように声を荒げる。互いに話が聞こえない二人を同時に相手にできるか。アマネにいたっては、姑息にも話をややこしい方向に合わせようとしているし。

 それでも居てくれと頼んだのは自分だ。ゴキブリ並にウザいとしても、陽奈とふたりっきりという方が舞衣には耐えられない。

 だからそれは甘んじて受け入れたうえで、募ったイライラを原動力に、勢いに任せて核心へ踏み込んだ。

「あたしたち……絶交してたんじゃないの?」

 突然の爆弾発言に、陽奈もアマネも目をぱちくりさせて舞衣を見る。それから陽奈だけみるみる顔を赤く染めて、どーんと、火山みたいに感情を爆発させた。

「えぇぇぇぇ! そーだったの!?」

 今度は舞衣の方がぽかんとして陽奈を見る。問題発生。予期せぬエラーに、舞衣の脳内CPUは処理が全く追い付かない。強制終了。再起動。しばらくのロードの後に、ようやくシステムは復旧した。

「確かに中学出てから全く連絡とれてないし……あっ、舞衣ちゃんアドレス変えた?」

「キャリア変わった」

「言ってよー。今ならLINEの方がいいか。やってるよね?」

「うん」

「QR出して」

「はい」

 舞衣は言われるがまま、ぽちぽちとスマホの画面を操作する。

「よし、と。じゃあ、これでまた仲良しだね」

 陽奈がにへらと笑う。目を眉みたいに細くして、スポーツドリンクのCMみたいだった。

 舞衣はほぼほぼ無心で、スマホの画面に表示された『友達追加』の通知をタップした。陽奈のLINEアイコンは、舞衣が知らない友人と撮ったテーマパークの記念写真だった。

「それにしても、舞衣ちゃんてば男の子みたいなこと考えるんだね」

「何が?」

「いや、だって、ほら……ふっ、ふふふっ」

 陽奈が笑いを堪える。舞衣は何のことか分からなくっても、それだけで恥ずかしさに頬が熱くなった。

「『絶交してなかったっけ?』って、あれでしょ、喧嘩した翌日に、もうこっちは忘れたレベルなのに、男子だけ妙によそよそしくってびくびくしてるやつ」

 非常に痛いところを突かれた。舞衣は、悪戯っぽく語る陽奈の顔を真っすぐ見ることができなかった。代わりに見えたアマネは、ニマニマと気持ちの悪い笑みを浮かべている。思わずスプレーをプッシュするが、響いたのは空撃ちの空気音だった。

 つまり何か。十四歳の少女が周囲からハブられる覚悟でした決断は、彼女にとっては翌日になったら忘れる痴話喧嘩と変わらないものだったってこと?

 羞恥とショックと自分への憤りと、ごちゃまぜになった感情が目元から溢れそうだった。それをぐっとこらえて、強気に笑ってみせる。

「え、映画、観たよ」

「観てないわよ」

「ほんと? 嬉しいな」

「その……陽奈も頑張ってるんだね」

「頑張ってる、のかな?」

「観てないわよ」

 差し込んでくるアマネの声は聞こえないことにして、舞衣は何とか話題を反らそうと必死だった。実際映画は観ていないが、嘘も方便という言葉がある。自分のための嘘を方便と言えるのなら、だが。

「うん。頑張ってる、かも」

 陽奈は自分に言い聞かせるように繰り返す。

「だって、それまで手を引っ張ってくれた舞衣ちゃんがいきなり放しちゃうんだもん。放り出された私は独りで頑張ってたよ」

 話題、脱線できず。五年前なら考えられなかった手ごわさに、舞衣は思わず唸る。

「その……ごめん」

「謝らないでよ。事情は分かるし。それよりも……」

 ちょっと考える間を置いて、陽奈はおもむろに舞衣の手を取った。

「お母さんのことはもう大丈夫なんだよね?」

「え……あ、うん、それはもう」

「そっか」

 返事をして、ちょっとだけ寂しそうに笑う。舞衣がよく知るあの陽奈の表情だった。

「立ち直る時、隣にいるのが陽奈だったらよかったな」

「何、どうしたの……陽奈」

 舞衣はうろたえたように彼女の名前を呼ぶ。重なった手のひらには、じんわりと汗が浮かんでいた。

「劇団もやめちゃうんだもん。学校も違うし、電話も出ないし、取りつく島がなかったよ」

「そういうのは彼氏とかに言いなって」

 舞衣は陽奈の手を振り払う。だけど、陽奈は食い下がった。

「彼氏なんて作ってる暇ないよ。高校からずっと学校、稽古、オーディション、本番の繰り返しだもん。大学だっておんなじ」

「全くってことはないでしょ」

「全くだよ。陽奈が要領よくないのは舞衣ちゃんも知ってるよね」

 今の彼女を見たら微塵もそんなことは思わないけれど、昔の彼女は確かにそうだった。恥ずかしがり屋で、泣き虫で、引っ込み思案。いつも目の前のことで手一杯。

 けれど、そんな彼女だからこそ、結果的に気が合ったのも確かだ。一つの事しかできないなら、自然とそこに全力が注がれる。舞衣は昔から、全力で何かに向き合う人が好きだった。

「舞衣ちゃん、大学は?」

「行ってないよ」

 隠す事でもないので、あっけらかんとして答える。その代わりみたいにアマネがため息をつく。

「もったいないわよね。お父様には行けって言われていたのに」

「あんまり行く意味を感じなかったから」

 その考えは今でも変わらない。それを聞いて、陽奈もふと考え込む。

「意味は――確かにないかな。収録だなんだで陽奈も休みまくりだし。代わりに、いつも特別課題があるけれど」

「じゃあ、なんで進学したの?」

「肩書がさ、仕事になることもあるんだって。よくバラエティで見るでしょう。『〇〇大学出身』みたいなの」

 陽奈はふふんと鼻を鳴らして、挑戦的な笑みを浮かべる。

「テストの点数だけは舞衣ちゃんにも負けた事なかったもんね」

「はいはい。恐れ入りました」

 舞衣が思いのほかそっけなくあしらうので、陽奈はつまらなさそうに笑顔を引っ込める。

「じゃあ舞衣ちゃんはフリーターってこと?」

「社員だよ。一応。契約更新があるタイプだけど」

「契約って正社員とは違うの?」

「まあ……月給制のバイトみたいなものかな」

 舞衣の場合、貰える給料自体はフリーターよりちょっとマシな程度。ただ社会保障や有休がついたりするので、その分はメリットと言えるかもしれない。

 でも、有給なんかは貰ってみると案外使い道がなく、体調不良や、消化のために使う無為な休日になることがほとんどだった。

 旅行やらの趣味があればまだ違うのだろうが、趣味と言えば映画を観る程度の舞衣にとって、生活のほぼすべてが職場で完結すると言ってもいい。

「ふぅん」

 陽奈がどこか他人事のような返事をする。少なくとも今の彼女は就活なんて無縁だろうし、雑学程度の興味なのも仕方がない。

 そう思っていた舞衣だったが、彼女の相槌の意味はまったく別のものだった。

「じゃあいつでも辞められるんだ?」

「いつでもってわけじゃないけど……なんで?」

「いや、いつ東京にくるのかなーって」

 言いながら、陽奈はうんとめいいっぱい背伸びをする。話が全く見えない舞衣が身を乗り出して尋ねる。

「どういう意味?」

「えっ、上京のお金貯めてるんじゃないの? だから大学も行ってないのかと思ってたけど」

「ち――」

 舞衣は大慌てで手と頭を振った。

「ちがうちがう! それこそあの日に言ったじゃん。あたし、東京は行かないって」

 全力で否定する舞衣を見て、陽奈がほんのわずかに眉間に皺を寄せる。けれどすぐににっこりと満面の笑みをうかべた。

「だよね! うーん、何言ってたんだろう。ごめんね」

「びっくりしたよ、ほんと」

 互いに胸を撫でおろして、ふと沈黙が流れる。独り言好きなアマネも、めずらしくぼんやりとふたりのことを眺めていた。

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