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第6話

 中三の春――桜が風に舞う季節。

 部活を終えてダッシュで帰ってきた舞衣は、自宅のリビングでそわそわと落ち着かない様子だった。

 目の前のテーブルに置かれたのは、一枚の大判封筒。宛先は「藍田舞衣様」。隅の方には東京に住所を置く芸能事務所の名前が刻まれていた。

「ねえ、開けても良いかな?」

「なんで私に聞くのよ」

 切迫した様子で尋ねる舞衣に、母親はため息交じりに笑う。封書が届いてからかれこれ一時間はそうしていたので、いいかげん当事者でない方は緊張もゆるみきってしまっていた。

 数度にわたるオーディションが終わったのが二週間ほど前のこと。それから今日まで、舞衣は日々気が気でなかった。部活だって身が入らないし、授業だって上の空。おかげでゴールデンウィーク開けにある中間試験が恐ろしいほどだった。

「いや、だって、これ開けたら決まっちゃうし。開けるまでは合格した私と、不合格の私が同時に存在しているわけで」

「あはは、女優やめて物理学者にでもなる? 論文書く時までとっておいたら、それはそれで話題になるかも」

「それはやだ!」

 ぶるぶると激しく頭を振って、舞衣はひったくるように封筒を胸に抱えた。舞衣には、実力を信じて事務所を紹介してくれた劇団の先生に、結果を報告する義務がある。

 だから絶対に、確認はしなければいけない。今、まさしく、この瞬間に。しかし、たとえこの結果で夢が絶たれてしまうわけではないと分かっていても、怖いものは怖いのだ。

 舞衣が覚悟を決めあぐねている間に、ブルブルと傍らのスマホが震えた。二度目のコールが響く前にそれをとった。

「もしもし、陽奈?」

「あ……舞衣ちゃん……?」

「どうした……? っていうか、どうだった……?」

「舞衣ちゃんは……?」

「い……いや、まだ開けてない」

 電話の先で陽奈が息を飲むのが分かった。細い吐息が通話口ごしに耳に掛かって、ぞくりと背中が震える。

「……た」

「え?」

 舞衣は先を促すように問う。電話越しの陽奈の声が一度で届かないのはいつものことだ。ぼそりと一言つぶやいてから、舞衣が聞き返してから、それからが本題。

「……うかった!」

 その二回目の声は、これまで舞衣が聞いたことないくらいに高揚し、弾ける想いであふれていた。舞衣は目を見開き、大きく息を吸い込んだ。

「陽奈ちゃん、なんだって?」

 催促する母親に、通話口を手で押さえてブンブンと首を縦に振る。

「う、うか……受かったって!」

「ほんとに!? きゃあ! すごいすごい!」

 舞衣の報告を耳にして、母親は電話の向こうにも聞こえるように手を叩く。それから、今度は娘のことを急かすように机をたたいた。

「ほらっ。舞衣も早くっ。なによ、陽奈ちゃんの方がよっぽど度胸あるじゃない」

「ち、ちがうよ。陽奈のはいっそ無感情なだけ」

 たった今、彼女の感情はスピーカーの先で響いたけれど。でも、陽奈の合格が舞衣の背中を押したのは間違いない。胸の内に確信に似た予感が沸き起こる。

「陽奈、繋いだままにしてて。開けるから」

 身体の震えはすっかり止まっていた。緊迫した表情も、今はどこか威勢すら感じさせる。

 スマートフォンをハンズフリーにして傍らに置く。その瞬間を、いの一番に彼女に聞かせられるように。ペーパーナイフで封書の折り目を裂き、中に入っている厚手の二つ折りファイルを引っ張り出す。そこで一度だけ深呼吸をしてから、あとは一息にファイルを開いた。

 ――合格通知。

 真っ先に目についた文面に、目の前がチカチカと夜空みたいに瞬く。

「やった! うかった、うかった、うかった!」

「きゃあ! やった! 舞衣、やった!」

 どちらともなく母親と一緒に抱き合う。絶叫がリビングを震わせて、飛び跳ねる二人の足音がテーブルを揺らす。スマホの先で、陽奈も涙ぐみながら悲鳴を上げているのが聞こえた。

 もしこの場いたら、彼女とも抱き合い、飛び跳ねていただろうか。でも今は純粋に、ただひたすら、夢の先の未来が開けたことを喜びたかった。かつて自分を馬鹿にしたクラスメイトに、この咆哮を届けたかった。

「で、でもお父さん許してくれるかな? オーディションを受けるのでさえ、めちゃくちゃ渋ってたのに」

 舞衣は喜びから一転、青い顔で合格通知を睨みつける。いざ現実味を帯びてくると、新たな心配事が顔を出すものだ。

 事務所に所属するとなれば東京に移り住まなければならない。流石に東北のいち都市からレッスンだ、役のオーディションだ、仕事だで首都圏に通うわけにもいかないだろう。

 しかしいかんせん舞衣は学生の身分。大学生ならまだしも、来年は高校生だ。それだってあっちの学校を探して、受験に備えなければいけない。父親の説得が一番骨が折れることは舞衣が一番よく知っている。祖父母をして「舞衣は本当にお父さん似だねぇ」と言われるくらい、性格は瓜二つなのだ。自分が不安に思う事を、彼が心配しないわけがない。

「チャンスがあるなら、舞衣はまっすぐそれだけ見ていればいいの」

 父親が心配症だとしたら、無鉄砲なのが母親だ。彼女はどんと胸を叩いて、ふふんと鼻を鳴らす。

「お父さんがゴネるなら、私が一緒に東京に住むから。それなら絶対に許してくれる」

「いいの?」

 舞衣は驚いて、でもみるみる口元がほころんでいった。この時ほど母親が頼もしく見えたことはないし、同時に一生逆らえないなとも感じた。現に、舞衣に思春期の反抗期というやつが訪れることはなかった。

 いや、訪れる暇がなかった。

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