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第1話

 はたして、しみついた線香の香りはクリーニングで落ちるのだろうか。葬儀中にセーラー服の袖を嗅ぎながら、舞衣はそんな事ばかりを考えていた。

 母親の訃報が学校に入ったとき、舞衣はちょうど、部活の記録会で自己ベストを更新したところだった。長距離走の選手だった舞衣は、それまでのスランプが嘘みたいに記録の伸び坂を駆けあがっていた。

 最後の夏は期待できる。そう喜んでいたのも束の間、葬儀は競技会の当日に重なった。

「交通事故と聞いていたけれど、綺麗にしてもらって本当に良かったわね」

 親戚たちがしんみり口にしているのが、その耳に届いた。

 父親越しに聞いた警察の話では、接触自体はそれほど激しいものではないということだった。ただ倒れた際の打ち所が悪かったらしく、後頭部にだけ大きな傷跡があるというのが舞衣の知る全てだ。

 棺桶の中で横たわった姿を見る分には綺麗なもの。もちろん葬儀屋も力を尽くしてくれたのだろうから、その点とても感謝は絶えなかった。

 だけど見れば見るだけ、舞衣には母の遺体が等身大の人形みたいな無機質なものに見えて仕方がなかった。今ここで解剖を始めたら、皮膚はゴムか何かでできていて、中に機械かなんかの骨組みが詰まっていても決して驚きはしない。

 そうして住職さんがお経を唱えている間にいきなり棺桶の蓋を拳で突き破っては、

「私は、反逆AIからキミ達を守るため、未来から送られてきたターミネーターだ」

 なんて抑揚のないセリフで会場を沸かせるかもしれない。

 流石にあり得ないか――と、頭の中に映画のテーマソングが流れてきた辺りで、意識を葬儀の列に引き戻した。たぶん火葬場の炎を見た辺りで、テーマソングはもう一度リピートしてくるような気がしていた。

 葬儀場は、強いお香の匂いで満たされていた。中学三年生の身で葬式事情なんてこれっぽちも分からないが、記憶も薄れ始めた祖父や祖母の葬儀よりも規模が大きいということだけは理解できていた。

 専業主婦でほとんどを家で過ごしていたのに、どこにこれだけの人望があったのだろう。父親の隣に並んで、舞衣はぼんやりと母親の姿を思い返す。

 今朝、母親は女の子に持たせるには大きな弁当箱に、舞衣が大好きなちくわの磯部揚げをたっぷりと詰めてくれた。そして「いってきます」「いってらっしゃい」の挨拶を交わした。

 舞衣が最後に見た母親の姿は、綺麗な歯を見せて笑う、優しい顔だった。

「この度はご愁傷様でした」

「妻のために、わざわざありがとうございます」

 父親が参列者の挨拶を受ける。声を掛けに来てくれたその男性を、舞衣はよく知っていた。

「本当に急なことで。彼女を知る団員一同、心を痛めております」

「先生には妻も、娘も、感謝をしきれないほどお世話になりました。こうして旅立ちの日に挨拶に来てくださったことを、きっと喜んでいることでしょう」

 父親の慣用句じみた挨拶が終わって、男性の視線は傍らの舞衣へと移る。稽古の時間外に団員達と語らう時と同じ、穏やかな表情。しかしその悲しげな瞳は、決して演技ではなかった。

「舞衣さん。お母さんのことは、本当に残念でした」

「いえ。お気遣いありがとうございます」

 舞衣は笑顔を作って彼を見上げる。身内の葬儀なのに、なんで自分が気をつかっているんだろうと鹿らしくすら思えたが、演技をしたところで彼の目はきっとごまかせない。

 男性は優しく微笑み返すと、腰をかがめて舞衣に視線を合わせる。潤った瞳がいきなり近づいて、舞衣はドキッとした。

「舞衣さんは今、将来への分岐点に立っています。しかし未成年という立場上、自分で考えて決めなさいとアドバイスすることはできません。落ち着いてからで構いませんから。これからのことをお父さんとしっかり話し合って、納得のいく道を選んでください」

 何のことを言われているのかはすぐに分かった。しかし、稽古場でならすぐに出てくる「はい」の二文字がどうにも胸を通らない。

 彼は返事を待っているようだったので、舞衣は口を堅く結んだまま首を縦に振った。

「本当に、立派な娘さんに育たれましたね」

 その言葉を噛みしめるように、父親が奥歯にぐっと力を込める。

「はい……妻が、よく育ててくれました」

 嗚咽と共に絞り出した言葉が、涙の雫と一緒にはじけた。

 もともと感情の起伏が大きくない人だったが、父親が泣いているのを見るのは後にも先にもこの一度きりだった。

 ああ、泣いて良いんだ。

 漠然と感情を押し殺していた何かがふっと消え去った瞬間、目頭がじんわりと熱をもって、舞衣は我慢することをやめた。涙と嗚咽がとめどなく溢れては、絨毯の上に沁み込んで消えて行った。

 葬儀も終わりかけたころ、参列者の中に一人の少女の姿を見つけた。中学三年にもなるのに母親らしき女性に手を引かれる彼女のことも、舞衣はよく知っていた。

 彼女は舞衣の視線に気づくと、母親の手を離れてそろそろと寄っていく。泣きはらした舞衣の顔を見ると驚いた様子で、かける言葉を探すようにあちこちを見渡していた。やがて、いつもそうしているようにおっかなびっくり舞衣の手に触れると、声を絞り出す。

「舞衣ちゃん……大丈夫?」

 そのひと言は、泣いて、叫んで、空っぽになった舞衣の胸にずっしりと響いた。

 彼女が口下手なのも、考えて考えて、なんとか見つけた言葉なのも理解していた。

 でも、この状態の自分を見て大丈夫に見えるのか。

 もっと他に言葉があるんじゃないか。

 彼女の性格からすれば悪気はない、舞衣のことを心から思っての言葉であることに偽りはないのだろうが、この時ばかりは親友の無神経さに少しだけ腹が立った。

 けれど同時に、舞衣の頭に浮かんだのは先ほどの父親の涙だった。無神経――その言葉がやがてそっくりそのまま自分に返って来るような気がして、じわじわと焦りに似たざわめきが体を満たしていく。

「何もできないけど……ずっと、そばにいるからね」

「……あのさ」

 ようやく言えたのはそれだけ。少女はおびえたように、手に力を込めた。

 重なった手のひらにじんわりとしみ出した汗は自分のものか、彼女のものか、分からなかった。ゴールテープを切った直後みたいに心臓がバクバクと高鳴って、喉の奥がカラカラに乾いていた。

 口にしてしまうのは簡単だ。たった三つの言葉から続く、今の想いを口にするだけ。その決断を阻んでいるものがあるとすれば、夢という名のわがままだった。

 のどを潤すように、僅かばかりのつばをのみこむ。舞衣はその行為を最後の一押しにした。

「ごめん、あたし、東京に行くのやめる」

 中学三年の夏。十四歳の少女の決断は、夢を諦めることと親友との絶交だった。

 その日から、心の内に魔女が住み着いた。

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