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WaterGarden
かずま
文芸・その他純文学
2024年08月02日
公開日
5,947文字
連載中
「お願い、私を描いてほしい……」
ただ絵を描く小さなお願い、それが二人の人生を大きく変える事件の始まり。

根暗な美術部員の真守と笑顔が素敵な人気者、凪。
お願いを引き受けたはいいけど、そのせいでイジメられ周囲との関係も悪くなる一方。
それでも真守は、凪の普段は見せない一瞬の表情に気づいてしまい、惹かれていくが……。

第1話 プロローグ -忘れていた忘れることのない思い出-

「生きることに疲れた」


 そう思う今、僕はどんな表情なのだろうか。


 暗く、静かな灰色の冬が東京の空に覆いかぶさる。

 まるで、この大きな町に沢山の人々を無理やり押し込めているかのよう。

 そんな空を忘れてしまったように、町の中はイルミネーションで煌めき、恋人たちや家族たちの明るい表情がお祭りのような賑わいを見せている。

 輝く巨大な電飾のツリーの前。大勢が足を止め、大きな笑顔で見上げている。

 幸せそうに話し合ったり。写真を撮り合ったり。

 みんなみんな、笑顔だ。

 笑顔達は容赦なく吹き付ける木枯らしのように、僕の体や心を容赦無く凍えさせる。

 その中で、走馬灯のように今までのことを思い返してしまう。


 就職して社会人になってから、僕も笑顔を作ることが多くなった。

 でも、彼らのような心からの表情じゃない。

 自分を守るための、鎧みたいなもの。

 必死に、必死に……。

 その心の底を悟られないように、厚い笑顔を貼り付けてきた。


 今日だってそうだった。

 それは会議室。ホワイトボードの前で、子供のように縮こまって立つ僕。

 そんな僕を、冷たい視線達がジッと見つめ続ける。

 決して期待している目じゃない。

 僕の粗を見つける為だけにある目だ。

 少しでも、どんな小さなことでも。ミスがあれば指摘してやろう。恥をかかせてやろう。

 そいった嫌味な感情が漏れだしている視線。仕事の内容なんて二の次なのだろうか。

 僕には視線を耐えること……その笑顔を崩さないことだけで精一杯だった。

 腋の下の冷や汗が僕を追い詰める。


 自分がどんなプレゼンをしたのかも覚えてない。

 だが、上手くいかなかったことだけは分かった。


「こんな仕事もまともに出来ないのかよ。なあ、お前入社して何年目? ふざけるのもいい加減にしろよ」


 声を荒げる上司。まともに出来るはずがない。まともに教えられていないからだ。

 でも反論などしない。できない。少しの笑顔で平謝りを繰り返すだけ。


「何笑ってんだよ。すみませんなんて誰でも言えんだよ。行動で示せよ」


 踏ん反り返る上司。

 その顔を伺って、最善と思われる行動に出る。

 僕は小さな声で作り直します、と伝えた。


「明日も休日出勤でいいんだな? じゃあ月曜までに作り直しとけ。お前のミスのせいだから休日手当なんて出さねえぞ」


 明日も出るなんて一言も言ってない。しかし、僕が自主的に出勤した形にしたいようだ。

 そうしないと会社的にまずいらしい。あくまで自主的だと。

 今日だって本当は休日だったんだ。僕の休まる日なんて1日もないんだ。

 手足や腋から流れ出す冷たい汗が僕を凍えさせる。

 目の前が滲んで何も見えなくなって。でも堪えて、悟られないようにと笑顔を維持する。

 必死に、必死に……。


 気づけば会議室には誰もいなかった。

 その放心状態のまま、会社を後にしていた。


 ツリーの前に流れるクリスマスソングには決して合わない今日の思い出。

 また、感情が溢れそうになった僕の表情。そして見知らぬ女性と目が合ってしまう。

 僕は顔を覆うようにコートの襟を立てて足早にその場を歩いていく。


僕には眩しすぎた。

 こんなよれよれのスーツと擦り切れたコートではとてもじゃないが寒さをしのげはしない。

 恋人たちはこんな日に、こんな時間に一人でこそこそと早歩きでいる僕を内心笑っているいるのかもしれない。


「おひとり様だ」とか。「かわいそうにね」とか。


 そんなことも考えてしまう……。

 でも、僕の進んでいる道。大きな流れの方を見渡してみると、卑屈な考えも少し薄れた。

 そこには僕と同じ早歩きの人が沢山いた。

 みんな表情を隠すようにうなだれている。


 見たくはなかった。でも、この人の量だ。ふとした瞬間、嫌でもその表情が目に入ってしまう。

 よく仕事に疲れて死人のような顔だとか言ったりするが……。

 僕にはそんな例えとは全く違った風に見えた。

 そう、怖いくらいの「無表情」だ。

 錆れたゲームセンターのネオン看板がじっと僕を見つめている。


 そんな人混みを掻き分けながら、足早に地下鉄の駅へ落ちていく。

 ホームには休日なのに無表情たちで溢れていた。

 僕は彼らに四方を囲まれ、ホームへの流れに身を任せる。

 ホームのどの位置にたどり着くなんてわからない。ただ、身を任せる。


 乗り場の列に流されるとすぐに電車はやってくる。

 電車は必ずと言っていいほど決められた時間にやってくる。

 上京したての頃はとても便利で驚いていた。

 電車を待つ時間がないなんてすごい。流石は大都会。


 でも今となってはこう思う。

 どの電車に乗ろうが、押しつぶされそうになるのを自宅の最寄り駅まで耐えるだけ。どれも同じだ。

 そして今日もまた、満員電車に揺られる。


 車内は暖房と汗の熱気であふれている。不快な熱気に包まれた僕の額からも一滴、一滴と汗が滲み出るのを感じる。

 そんな車内の空気が、僕の不安を思い返させる。

 こんな仕事、いつまで続くのだろうか。

 入社して何年経ったとかどうでもよかった。いまだに何者でもないことは変わりない。

 でも、どうしたいのかも分からない。どうなりたいのか。僕は今、どこへ向かっているのか。

 満員電車、道しるべは何も見えない。


 窓に映った自分が目に入る。あの「無表情」が。

 こんな顔、見たくはなかった。でも押し詰められた電車で身動きも取れない。

 嫌でも見続けてしまうその表情。恐ろしいまでの無表情。

 でも本当は無表情なんかじゃない。隠しきれてなんかいない。

 悟られまいと必死に感情を隠している。そんな顔。

 笑い方も忘れたかのような。


 気づいたときには最寄り駅もとっくの前に通過した後だった。

 でもこれでいい。今日はこのまま電車に乗り続ける。

 この電車には行き先がある。羨ましい。でも僕はその場所を知らない。


 降りる場所も決めてない。

 僕はどこへ向かうのか。

 立ち止まるのか、それともまだ行きたいのか。行く先もそれからも僕にはわからない。

 でも僕はある場所へ向かっている。


 ついに電車は地面を抜け出し、窓の外には町の風景が遠ざかっていた。

 星もない暗い闇が広がっている。

 電車はそれでも先へ進む。駅にとまる。乗客が降りる。その繰り返し。


 他人が降りる駅なんて気にならなかった。

 気付いた時には押しつぶされそうだった車内も今は僕ひとりだけとなった。

 座席の端の方に座り直し、うとうとしながらさらに数十分。

 何も考えず、ただ電車の足音に耳を澄ませる。

 そして次の駅へ到着のアナウンスが流れる。


 聞いた事もない名前の駅。同じ東京だというのに人はどこにも見当たらない。耳に入ってきた音は、都会では高層ビルに遮られていたであろう静けさだけだった。


「毎度ご乗車ありがとうございます。この先、信号機のトラブルが発生した為、一時運転を見合わせます。お急ぎのところ申し訳ありませんが、発車まで暫くお待ちください」


 車掌のアナウンスが電車内に流れる。何やらトラブルのようだ。

 見知らぬ駅で足止めされてしまう。でも待っていても仕方ないし、僕にとって降りる駅なんてどこでもあまり変わらない。

 僕はこの駅で降りることにした。


 電車から降りた瞬間、目の前に佇む山からのとても澄んだ冷たさが僕を迎える。

 風は思っていたよりも冷たすぎたのか、震えながら僕は電車の中へ一歩後に戻る。

 そして深呼吸を一つ。前に一歩踏み出す。

 山の空気に染まっていく。僕の体の隅々まで。


 この風も、都会の寒さに比べれば心地よい。

 駅には小さな電灯と、古びて薄汚れた木のベンチがひとつだけ。

 ホームを覆う屋根の鉄も錆びてボロボロで今にも崩れて落ちてきそうな雰囲気だ。

 この一帯はまるで時代に取り残されているかのようだった。


 思っていた以上の田舎っぽい雰囲気にすこし唾をのむ。

 電車の運行再開を知らせるアナウンスが静かな駅に流れる。思ったよりも早い復旧だ。大したことのないトラブルだったのだろう。

 電車は僕を置いて、また見知らぬ町へと進んでいく。連なった光たちが遠く遠くへと消えていってしまう。


 一人ぼっちになった僕は向かった。

 そこは僕の知らない場所、でもよく知っていて。そこはとても怖くて暗くて恐ろしい場所。でもそこは僕が一番大好きな場所。


 駅に改札機はなく、小さな切符入れの箱と、その横にはノスタルジー溢れる駅舎には似つかない最新のICカード読み取り機が置かれていた。

 僕は読み取り機にカードを押し当て、駅を後にする。


 駅から出たら一本のコンクリート道が続いていた。

 道の両側は、生い茂る草木で挟まれている。

 そこに点々と立つ電灯が道筋を示している。

 どこまで続いているかはわからない。

 ただ、長い道があるだけ。

 僕はその道をゆっくりと歩み始めた。


 灯の下を歩くと、目の前の道は分かる。当然、それ以外のところは真っ暗闇で何も見えない。

 その真っ暗闇の中、大きな山の影はまるで獣のように居座っている。

 しばらくすれば目も少し慣れてきたのか、僕を挟んでいる両側の暗闇が浮かび始める。

 覆われた木々、伸びた雑草だらけの空き地に人の気配がしない民家。

 ふと後ろを振り返るとまっすぐな道の一番奥に駅の灯がかすかに見える。

 僕はその光を背に向け、再び前に歩みをすすめる。


 街灯、暗闇、そしてまた街灯。

 まるで異世界への道筋のように先の見えない暗闇へと続いている。

 後ろに駅の灯も見えなくなった頃、先へ進む街灯もなくなり、コンクリートの道も未舗装の土の道と変わっていた。

 ここから先は別世界だと感じさせるように、一瞬に空気が変わる。


 山から下りてきた風はより一層冷たく、僕も自然と身を構える。

 道の先を見てみると、所々に白い雪が身を寄せ合うように積もっている。

 もっと着込んでくればと後悔したが、今さら後戻りはできない。

 僕はスマホの明かりを点け、その道を、山の中へと進んで行った。


 ……僕は山に向かっていた。


 生きることに疲れたり、死にたいと感じたら、僕は山に向かう。

 誰もいない山。真っ暗な冬の山。積もった雪も暗闇に溶ける。

 虫の気配すらない。僕一人だけ。

 しかしその孤独が、より恐怖を増幅させる。


 スマホのライトが照らす小さな空間だけを頼りに歩き進める。

 揺れる木の音が、何か別のものに見えてくる。

 目の前は明るく照らされている。でもその先の木々の向こうは完全に暗闇だ。

 足元を見る余裕もない。暗闇の先にはなにか恐ろしいものが僕を睨む。

 言葉にならない恐怖が全身を包む。


 その先には何もないのはわかってる。

 でも怖い。暗闇にとてつもない恐怖を感じる。

 それは原始的で、本能的で、理屈じゃない恐怖。

 僕はその恐怖を思い出すために山を訪れる。


 スマホのライトを消す。目を開いているのか、閉じているのかも分からないほどの暗闇。

 その恐怖を全身で感じる。

 恐怖があるということは……。

 死に怯えてる。

 それはまだ生きたいという気持ち。


 その気持ちを再確認するために。

 思い出すために。

 決して忘れないために。

 僕は山へとむかう。

 ただそれだけ。


 でもとても大事なことだと思う。

 どんなに心が折れそうでも、死ぬことは恐れなければいけない。


 そんな恐怖に浸っていると、突然背後に異様な気配がした。

 抽象的じゃなく、確実にそこに何かがいる。

 意識が背中に寄って行くのが分かる。

 心臓の鼓動が早くなり、滲み出た汗が額を滑り降りる。


 抑えきれない吐息は荒く、猛獣やら、幽霊やら、殺人鬼やら、様々な恐怖が僕の頭を駆ける。

 僕は怯えた目を開き、恐る恐る後ろを振り向きその気配を照らしてみせた。


 ……だが、その先には何がいるわけでもなく、少し大きな木が風に揺れていただけだった。

 僕は急に全身が寒くなり、くしゃみを一つ。

 帰ろう……。


 来た道を戻ろうと足を動かした時、なにか木の根っこのようなものに足をとられてしまった。

 バランスを崩してしまった僕は悲鳴をあげる余裕もないまま、山を転がり落ちていった。


 小石や小枝が容赦なく僕を痛めつける。

 ようやく止まった時にはスーツもボロボロで、全身傷だらけ。手からは血が流れている。

 背後に気をとられ過ぎて足元に全く注意が行ってなかった。


 どのぐらい滑り落ちたか、見上げた坂の先はとてもじゃないがスマホのライトでは照らさない…。

 落ちている間は一瞬のように感じたが、登って戻れそうにもないところまで落ちたみたいだ。

 人の気配のない真夜中の、しかも真冬の山奥で迷ってしまった僕……。

 頭の血の気が引く感じを覚え、再び鼓動が少しずつ早くなっていく。

 本気で命の危険を感じ始める。


 とにかく山を降りなくてはと、慌てて周りを見渡す。

 しかし、スマホのライトで届く範囲なんてたかが知れてる。木々と暗闇だけだ。

 それでも何か、何かないかと感覚を頼りに当たりを必死に探す。

 すると遠くの方からか、小さく水の流れる音が聞こえた。


 川を辿れば山を下れると考えた僕は、その水の音の方へ歩みを進める。

 真っ暗闇の中、音だけを頼りに。

 どうか生きて帰れますように。そんなことを本気で考えながら、さらに大きな木を抜け、水の方へ進む。


 そしていよいよ音も間近に迫った時、深い茂みに道を阻まれる。

 先の見えないほど生い茂ったそれを無理やりにでも進んでいく。


 この先に帰り道があるんだ。水の音はすぐそこだ。

 音だけを頼りに、傷だらけの体にさらに傷がつくことも忘れて、必死に茂みを掻き分けもがき進んでいった。

 そしてやっとの思いでたどり着いた茂みの終わり、水の音も透明に耳に入るようになった。


 最後の茂みを掻き分ける。

 その先にあるもの。

 その光景を見た僕は……。


心を飲まれてしまっていた。


 輝き広がる小さな湖。

 周りは暗い木々に囲まれていたが、天窓のように空いた空からは大きな月の光が煌めいて、まるで童話に登場する夢の国の庭のような世界がそこにはあった。


 幻想の世界を目の当たりにした僕。

 そんな僕は、ふとあることを思い出した。


 遠い昔の記憶。

 今まで忘れていたことが不思議な。

 でも決して忘れることのない。

 そんな思い出。

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  - Water Garden -


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 何も変わらない。全部。


 朝の日差し。照らされた山々。伝わるセミの声。遠い空と雲の間。

 田舎町の古い校舎。光に揺れるプール。登校する生徒。男。女。自転車。

 美術室から覗く僕。変わらない。毎日。永遠。


 目の前にある真っ白な花瓶。大抵、花瓶。筆。色の溶けた水。

 キャンバスの周りに何十枚も散らばる花瓶。全部、変わらない。


 絵の具を出す。パレット。僕は筆をとる。色彩を走らせる。

 赤。黒。黄色。橙。緑。白。青。

 全部を僕の花瓶に塗り重ねる。1枚、2枚、何十枚全部。


 目の前にある花瓶。綺麗な真っ白の花瓶。

 僕の周りに散らばった花瓶。汚い。色が混ざって。

 それでも何も変わらない。何をしたって。



 チャイムが鳴る。一日が始まる音。

 慌てて画材道具を片付ける。

 美術室の端に乱雑に積まれた画材道具。

 いつものことだ。


 早歩きで教室に向かう僕。廊下に流れる窓。

 見えてくる1年2組の表札


 そう、何も変わらない。

 そんな1日がまた、始まっていく。

 そう思っていた。

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