これは斜陽街から扉一つ分向こうの世界の物語。
どこかの扉の向こうの世界の物語。
ツヅリ少年は、雨水のように物語をすすって、
名前を得て、考えを得て、そして、苦しみも得た。
ここから出たらツヅリ少年は溶けていなくなる。
それはまさしく貼紙街の囚人。
いる、ことしか許可されていない、
待つ、ことしか許可されていない。
どれほど苦しいだろう。
探偵はそれを想像しようとしてやめた。
この苦しみを想像することは、
思い上がりでしかないと、なんとなく思った。
「僕は」
ツヅリ少年は話す。
「僕は、消えたくない」
探偵はわかっている。
ツヅリ少年が、どんなに苦しくとも存在したいということ。
物語に存在し続けたいこと。
「存在したいってことは、悪じゃないさ」
探偵はそう言うが、慰めにすらならないと思った。
軽い言葉だ、
探偵は少し自嘲する。
「ツヅリ」
探偵は彼に呼びかける。
名前を呼ばれたツヅリ少年は、
きょとんとしたあと、
「それは、僕?」
と、恐る恐る訊ねる。
「そう、ツヅリ。名前、だろ?」
「うん」
「ここにも、いずれ雨が降ることもあるかもしれない」
「そんなこと…」
「ないとも限らないさ。そしたら、物語は変わるはず」
探偵は、ツヅリの目を見る。
「たくさんの雨をすすって、涙を流すといい。そしたら」
「そしたら?」
「生きるってことかもしれないさ」
「生きる」
ツヅリ少年は繰り返す。
探偵はもう、こうしてツヅリ少年と会話することはない、
そんな予感がした。
いつもの鋭い勘と似ているけれど違うような。
「ありがとう」
ツヅリ少年ははっきり言った。
「僕は、ここで生き続けて、雨が降るのを待ちます」
それは、ここに囚われたまま存在する覚悟。
ツヅリ少年の目に、一粒の涙。
「僕はもう、大丈夫です」
探偵はうなずく。
そして、ツヅリ少年の部屋をあとにした。
涙には気がつかないふりをした。
貼紙街に雨の匂いはまだ遠い。