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第557話 囚人

これは斜陽街から扉一つ分向こうの世界の物語。

どこかの扉の向こうの世界の物語。


ツヅリ少年は、雨水のように物語をすすって、

名前を得て、考えを得て、そして、苦しみも得た。

ここから出たらツヅリ少年は溶けていなくなる。

それはまさしく貼紙街の囚人。

いる、ことしか許可されていない、

待つ、ことしか許可されていない。

どれほど苦しいだろう。

探偵はそれを想像しようとしてやめた。

この苦しみを想像することは、

思い上がりでしかないと、なんとなく思った。


「僕は」

ツヅリ少年は話す。

「僕は、消えたくない」

探偵はわかっている。

ツヅリ少年が、どんなに苦しくとも存在したいということ。

物語に存在し続けたいこと。

「存在したいってことは、悪じゃないさ」

探偵はそう言うが、慰めにすらならないと思った。

軽い言葉だ、

探偵は少し自嘲する。


「ツヅリ」

探偵は彼に呼びかける。

名前を呼ばれたツヅリ少年は、

きょとんとしたあと、

「それは、僕?」

と、恐る恐る訊ねる。

「そう、ツヅリ。名前、だろ?」

「うん」

「ここにも、いずれ雨が降ることもあるかもしれない」

「そんなこと…」

「ないとも限らないさ。そしたら、物語は変わるはず」

探偵は、ツヅリの目を見る。

「たくさんの雨をすすって、涙を流すといい。そしたら」

「そしたら?」

「生きるってことかもしれないさ」


「生きる」

ツヅリ少年は繰り返す。


探偵はもう、こうしてツヅリ少年と会話することはない、

そんな予感がした。

いつもの鋭い勘と似ているけれど違うような。

「ありがとう」

ツヅリ少年ははっきり言った。

「僕は、ここで生き続けて、雨が降るのを待ちます」

それは、ここに囚われたまま存在する覚悟。

ツヅリ少年の目に、一粒の涙。

「僕はもう、大丈夫です」


探偵はうなずく。

そして、ツヅリ少年の部屋をあとにした。


涙には気がつかないふりをした。

貼紙街に雨の匂いはまだ遠い。

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