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第550話 無

これは斜陽街から扉一つ分向こうの世界の物語。

どこかの扉の向こうの世界の物語。


ウツロは水の入っているガラスコップを見つめている。

水がある、何かがあるということは、何かがなくなっているような、

ウツロは漠然とそんなことを思った。

なぜかはわからないし、ウツロは饒舌に説明できるほど、

言葉を多くは持っていない。


おいしい、そら、おちていく、ひと、

ウツロの外側から、何かの言葉がやってきて、

味覚が晴れるように消えてしまう。


「お待たせしました」

ドアを開けて、ウサギが帰ってくる。

「早かったのね」

「ウサギの足は速いものです」

ウサギは笑い、

「さぁ、お茶をいれましょう」

と、店主のオオカミの許可も得ずに、カウンターにまた戻る。

オオカミは苦笑いをちょっとだけ浮かべると、

湯が入っているポットをウサギに渡す。

「適温のはずさ」

「了解、オオカミさん」

無駄の一切ないウサギの技術。

ありえないお茶、それは、ウサギの手で開かれる。

湯を注ぎ、茶の葉と香りが開いていく。


ひとつのカップに、ウサギは茶を注ぐ。

そして、ぼんやりしていたウツロの前に差し出す。

「どうぞ」

ウサギは微笑む。

ウツロは、カップを手に取り、少しだけ冷まして、飲んだ。


ぼくは。

ウツロの内側の言葉が何かをつむぐ。

ぼくは、ウツロ。

茶がウツロの内側に滴り落ちていくのを、

ウツロは感じている。

ぼくは、なんだろう。

ぼくのなかには、なにも、なかった?

ぼくは、ない?

ぼくは、いる、いるけど…

いるけどいない?

ぼくは、なに?


ウツロは何かを悟った。


「ぼくは、あるけれどないもの」

ウツロは話す。

「ぼくは、ありえないもの」

キュウがうなずく。

家具屋入道は神妙な顔をして、

オオカミは口の端を皮肉な笑みにして、

ウサギは微笑んでいる。

「ぼくは、無。無があるというのが、ぼくの、意味」


そうしてウツロは、あるべき姿に戻る。

それは、何もないと言う姿。

何もないところ、そこにはウツロだった無が存在している。

キュウは無となったウツロを見届けると、あるべき場所に帰っていった。


とある森の一日は、こうしていつものように終わる。

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