その彼方に憧れがあるように。
その夢をかなえることが、あるかのように。
彼方には全てがあるように。
ここは斜陽街一番街のバー。
決して大きくないバーだ。
ボックス席が少々。
止まり木が少々。
それでもぴかぴかのグラスはいっぱい。
磨かれた酒瓶もいっぱい。
それが静かに並んでいて、
バーのマスターがまだ何かを磨いている。
店内にはジャズの有線放送が流れている。
そしてそんな小さなバーの一角、
ボックス席に妄想屋の夜羽(ヨハネ)はいる。
帽子を目深にかぶっていて視線は見えない。
くすんだ藤色のコートと、同じ色の帽子をかぶっている。
テーブルには古ぼけた小型のテープレコーダー。
夜羽はこのテープレコーダーで、
お客が吐き出す妄想を録音したり、
または再生させている。
ジャズのコントラバスの音が、静かにずんずんなっている。
スネアの音だろうか、よくわからないがシャラシャラなっている。
先ほどまでここには妄想を聞かせに来たお客がいた。
テープには、「彼方」とマジックでかかれている。
夜羽はテープをもてあそぶ。
彼方には憧れがあると。
彼方には全てがあると。
お客はとつとつと語っていった。
「憧れ、かぁ」
夜羽はつぶやく。
夜羽が今まで接してきた妄想は山のようにある。
遠くに何かあるという妄想も、少なくはない。
遠く彼方に漠然と何かがある。
それは彼方への憧れ。
憧れは妄想だろうかと少し考えてしまう。
夜羽は遠くを見るしぐさをする。
帽子に隠れて視線は見えない。
夜羽が男なのか女なのか、老いているのか若いのかもわからない。
「憧れ、かぁ」
彼方への憧れ。
まだ見たことのないもの。
あるいは世界の果てだろうか。
それとももっと違うものなんだろうか。
夜羽は考えるようなそぶりをする。
考えが閃いたようには見えない。
ぼんやりと夜羽は考える。
ここでないどこかに憧れを抱いている、
それを夜羽は理解できないのかもしれない。
夜羽は妄想屋。
妄想屋は妄想と現実の間に立つもの。
全てが見えるわけでない。
彼方への憧れも、見えないのかもしれない。
だから妄想屋をやっているのかもしれない。