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第351話 彼方

その彼方に憧れがあるように。

その夢をかなえることが、あるかのように。

彼方には全てがあるように。


ここは斜陽街一番街のバー。

決して大きくないバーだ。

ボックス席が少々。

止まり木が少々。

それでもぴかぴかのグラスはいっぱい。

磨かれた酒瓶もいっぱい。

それが静かに並んでいて、

バーのマスターがまだ何かを磨いている。

店内にはジャズの有線放送が流れている。

そしてそんな小さなバーの一角、

ボックス席に妄想屋の夜羽(ヨハネ)はいる。

帽子を目深にかぶっていて視線は見えない。

くすんだ藤色のコートと、同じ色の帽子をかぶっている。

テーブルには古ぼけた小型のテープレコーダー。

夜羽はこのテープレコーダーで、

お客が吐き出す妄想を録音したり、

または再生させている。


ジャズのコントラバスの音が、静かにずんずんなっている。

スネアの音だろうか、よくわからないがシャラシャラなっている。

先ほどまでここには妄想を聞かせに来たお客がいた。

テープには、「彼方」とマジックでかかれている。

夜羽はテープをもてあそぶ。

彼方には憧れがあると。

彼方には全てがあると。

お客はとつとつと語っていった。

「憧れ、かぁ」

夜羽はつぶやく。

夜羽が今まで接してきた妄想は山のようにある。

遠くに何かあるという妄想も、少なくはない。

遠く彼方に漠然と何かがある。

それは彼方への憧れ。

憧れは妄想だろうかと少し考えてしまう。


夜羽は遠くを見るしぐさをする。

帽子に隠れて視線は見えない。

夜羽が男なのか女なのか、老いているのか若いのかもわからない。

「憧れ、かぁ」

彼方への憧れ。

まだ見たことのないもの。

あるいは世界の果てだろうか。

それとももっと違うものなんだろうか。

夜羽は考えるようなそぶりをする。

考えが閃いたようには見えない。

ぼんやりと夜羽は考える。

ここでないどこかに憧れを抱いている、

それを夜羽は理解できないのかもしれない。


夜羽は妄想屋。

妄想屋は妄想と現実の間に立つもの。

全てが見えるわけでない。

彼方への憧れも、見えないのかもしれない。

だから妄想屋をやっているのかもしれない。

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