これは斜陽街から扉一つ分向こうの世界の物語。
針金模様の細工のしてある扉の向こうの物語。
イチロウは、トランプをまとめて、本の上に置いた。
列車は揺れる。どこかを目指して。
外の風景が飛んでいく。
山が川が、後ろに飛んでいくようだ。
遠くを見る。
季節を映し出している、風景はそれだけで美しい。
イチロウはそんなことを思った。
不意に、暗くなった。
ゴー…と、列車の走る音が反響する。
まもなく、電灯がついた。
トンネルに入ったらしい。
イチロウは外を見る。
真っ暗で、窓にイチロウが映るだけだ。
イチロウは、映っているのは、自分の影かもしれないと思った。
影は多分、イチロウの忘れていることを覚えていて、
影は多分、イチロウの行き先を知っているのだと思う。
イチロウはじっと影を見る。
影もまた、イチロウを見る。
同じ速度で走る、列車が隣にあるように、
電灯によって現れた、イチロウと影が見詰め合う。
イチロウは多分、肝心なことを忘れているのだと思う。
イチロウをここまで組み立てた人々や、その縁を。
イチロウは多分、すっかり忘れている。
誰がいただろう。
イチロウは思い出せない。
イチロウは困った顔をした。
影は微笑した気がした。
白い電灯で映し出された影、
イチロウと違う現象。
あるのにいないもの。
(そのうち思い出せるさ)
イチロウの耳に、耳慣れたような声がした気がした。
聞き覚えがあるはずだ、
それはイチロウの声によく似ていた気がした。
イチロウは、窓の影を見る。
窓の影は微笑している。
イチロウの姿をした影、それは何かをわかっている。
イチロウはうなずく、
影もまた、うなずいた。
イチロウ自身が、つぶやいたような気もする。
また、影がささやいた気もする。
イチロウは心で問いかける。
どこに行こうとしているのか、なんでここにいるのか、
列車の旅に終わりはあるのか、
何を忘れてしまっているのか、
なぜ思い出せないのか。
言葉にしきれない思いも、まとめて影にぶつけた。
影は微笑む。
イチロウは、すっと冷静になった。
もしかしたら、伝えられないだけで、
全部知っているのだろうか。
影は微笑しようと…少しだけ顔が歪み、
突如、風景になった。
電灯は消え、窓は当たり前の風景をうつしていた。