斜陽街一番街、バーがある。
たいていお客は少なく、
のんびりジャズの有線がかかっている。
マスターが食器を磨いている。
妄想屋の夜羽は、ぼんやりカクテルを飲んでいる。
ドアが開く音。
マスターが視線を上げる。
「やぁ」
やってきたのは、薬師だ。
片手で、ラップされた皿を持っている。
「外、いいの?チョークでごちゃごちゃだよ」
薬師が外を示す。
マスターは怪訝な顔をする。
「いやさ、子どもたちがあちこちの路地に落書きしてるんだ」
「思い出は形だけにとどまらないでしょう」
マスターは静かに言葉にする。
薬師は、にっこり微笑んだ。
「ま、今日は差し入れに来たんだ」
「差し入れ?」
「まんぷく食堂から、からあげだってよ」
「ほう」
マスターは少ない言葉の中に、感嘆をいっぱいに入れる。
「まぁ、分けて食べてくださいだって」
薬師は持っていた皿を置く。
ラップをぱっと取り払う。
白い皿の上に、からっとしたから揚げ。
香ばしいにおいがする。
「それじゃ」
薬師がきびすを返そうとすると、
「ちょっとだけ待ってください」
マスターがやんわりと止める。
「まんぷく食堂さんで、お酒は飲みますか?」
「どうだろ?」
薬師はわからないそぶりをした。
「そうですか。日本酒でしたら、料理にも使えるかと思ったので」
マスターは、一升瓶を取り出す。
なみなみと透明な液体が入っている。
「鈴なり娘の夢、と、いいます」
「その酒が?」
「はい、飲むのももったいなく、今まで秘蔵にしていました」
マスターは、カウンターに一升瓶を置く。
「ぜひ、まんぷく食堂さんに」
マスターは、丁寧にお辞儀をした。
薬師が、一升瓶を受け取る。
「たしかに、届けさせてもらうよ」
「まんぷく食堂さんも喜びますよ」
薬師は、そういうとバーをあとにした。
マスターは、から揚げを口にする。
適度に硬く、適度にやわらかく、肉のうまみがたっぷりだ。
マスターは、消えかけている昔がよみがえってきそうな気がした。
涙すら美しく思える、思い出の中だけの昔。
客の前で泣いてはいけない。
いつも居ついている客もいるのだ。
マスターは、思い出をこらえた。
たった一口で、こんなに泣きそうになるほど美しい料理。
どんなにお金を払っても食べられない思い出。
マスターは、静かに二口目を食べた。