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第285話 駅

これは斜陽街から扉一つ分向こうの世界の物語。

針金模様の細工のしてある扉の向こうの物語。


男は駅にいた。

改札を通った覚えはあるが、

それ以前の記憶は、ない。

思い出す必要もないと思った。


男は階段を下り、

駅のホームに出る。

誰もいない。

薄い藤色の景色。

コンクリートの灰色が、

うっすらと色づいている。

明け方か夕方か、

男は考えるのをやめた。

どうせ考える必要もないことだ。


男は大きなボストンバッグを、

足元に置く。

重いボストンバッグだ

そして、列車が来るであろう方向を見る。

多分あっちから来る。

あっちがどっちかわからない。

上りも下りもわからない。

ただ、なんとなくあっち。

あっちから来るのだ。


音のない世界のような気がした。

藤色の、一人きりの世界。

男は駅のあちこちを見る。

小さな郊外の駅。

本当に誰もいない。

いる必要もないと、男は思った。

ここから列車に乗るのが自分だけのこと。

それだけのことだ。


男は線路を見渡す。

行くべき方向を。

向こうに行くのだ。

線路以外、何があるわけでもない。

当たり前の郊外の風景。

そこに、電線と、線路。

家が少ない、障害物も少ない。

それなのに、向かう先は、

果てしなく遠くにあるように見えた。


ことんことん…


遠くから音がする。

列車だ。

男は列車の来るほうを見る。

あっちから来る。


がたんごとん…

しゅしゅー…


列車は当たり前の音を立てて、駅へと滑り込む。

間が少しあり、扉が開く。

誰も降りないことを確認して、

重いボストンバッグを持つと、

男は列車に乗った。


人影もまばらな列車の、

ボックス席に男は席を取った。

列車が動き出す。

心地よい振動とともに。


男は、流れる風景を見ながら、

今までのことを思い出そうとした。

それは、あの駅に置いてきたのか、

なかなか思い出せなかった。


思い出す必要もないのだろう。

男は、列車に揺られることにした。

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