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第281話 箱席

コトリ


小さな音を立てて、椅子が動かされた。

客は一礼して、席をあとにした。

妄想屋の夜羽も、うなずいた。


ここは、斜陽街一番街のバー。

隅っこのボックス席。

妄想屋の夜羽(よはね)のいる、

いつもの席だ。


夜羽は、帽子を深々とかぶり、

いつものように、どこを見ているのかわからない。

けれども、お客の背中を見ているような、そぶりをした。

お客は、扉を開けて、出て行った。


ここは斜陽街。

様々の記憶の集まる、記憶の底。

ごみごみした街、細い通り、

シャッターの下りた店、営業してる小さな店。

必要とされているのか、

必要とされていないのか、

よくわからないものが、ごちゃごちゃしている。

そんな、記憶に沈んだものが、

ひっそりと、この街には、ある。


妄想屋の夜羽は、

このボックス席で、

妄想を録音したり再生させたりしている。

それが妄想屋の仕事だ。

夜羽は古いテープレコーダーから、

カセットテープを取り出した。

ペンを取り出し、カセットテープに名前をつける。

「箱席」

きゅっと音を立てて、名前は付けられた。


夜羽はペンをしまうと、

視線が見えないけれど、ぼんやりして見せた。

「あの人は、きっと乗り換えるんだろうね」

答えるものは、いない。

バーのマスターは、いつものように食器を拭いている。

夜羽はカセットテープをもてあそぶ。

「箱席、ボックス席、彼はそこに少しいただけ」

夜羽はぼんやりと続ける。

「乗り換えのために、少し寄ったに過ぎないのかもね」


夜羽は思う。

みんな通り過ぎていくものだと。

記憶の底の斜陽街を、

きっと通り過ぎていくだけ。

それでも斜陽街に来たことを、

忘れないでいてほしいと思った。

どこかに行くために立ち寄る、乗り換えの駅。

少しの時間しか共有できなくても、

夜羽は訪れた人を忘れたくなかった。


いつものように、バーにお客がやってくる。

電脳系、生体系。他にもいるのかもしれない。

夜羽はお客が好きだし、

この斜陽街が好きだ。

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