酒屋は、大きな廃墟にいた。
思いの溜まった廃墟だ。
この廃墟が廃墟でなかった頃は、
さぞかし、多くの人々がいたに違いない。
酒屋は耳をすませる。
酒屋の酒屋たる、神経を集中する。
この廃墟はホテルだった。
大きな酒の池があり、
酒の池の底は…朱塗りであり…
満たされた酒の上に、新しい木の匂いのする船が浮かび…
人々はそこで宴をした。
酒屋は、目を開けた。
今、そこは廃墟であり、
朱塗りは剥げ、木の船は朽ち、
厨房は腐るものがないほど荒廃していた。
それでも、思いだけは残っている。
「酒屋さん」
酒屋に声をかけてきたのは、
たまたま一緒になった、廃墟カメラマンとライターという者たちだ。
「取材終わりました」
切れ者そうな無邪気さを持った、ライターがぺこりと頭を下げる。
大きな道具を持ったカメラマンは、帽子を取ってお辞儀した。
「ん、わかった。もうここは壊れる。はよ、行ったほうがええ」
「酒屋さんは?」
「これから、宴の始末や」
「そうですか…では、見学してもいいですか?」
「帰路は確保してな」
ライターは戻る道を確認すると、
酒屋のそばに戻ってきた。
カメラマンは、無愛想にその光景を見ている。
酒屋は、地下の酒の池のあった中心で、
空の酒瓶を一つ、口を上にして、目の高さに持ち上げる。
目を閉じ、酒屋は集中する。
思いは酒瓶にくゆる。
談笑。
酔い。
美食。
絢爛。
浮かれ、騒ぎ、永遠と信じた瞬間。
カメラマンとライターの周りを、
在りし日のホテルが、姿を現してよぎっていく。
それは、ほんの一瞬だ。
次の瞬間には、
在りし日のホテルは、酒瓶に酒として存在する。
もう、あの瞬間は戻ってこない。
廃墟は、ただの廃墟になった。
酒屋は静かに、酒瓶にふたをした。
三人は黙って、帰路に着いた。
そして、ホテルの敷地から出たその瞬間、
ホテルだった建物は、静かに砂になった。
それは、世界の果てを思わせるような風景になった。
「いずれ、ここを地下の植物が覆うやろ…」
酒屋はつぶやいた。
「宴なんぞ、最後はさびしいもんや」
酒屋はしみじみ言った。
「これから酒屋さんはどうします?」
ライターが聞いてきた。
「帰るわ」
「そうですか。また、どこかで逢えるといいですね」
ライターは無邪気に笑った。
酒屋もつられて笑った。
酒屋は帰路に着く…前に、振り返った。
「そうそう、大きな水族館の廃墟があったけどな」
「え、ああ…情報にはありました」
「そこ、水が腐っとるから、やめたほうがええで」
酒屋は忠告すると、
ディバッグをしょって、帰路に着いた。
宴の最後はさびしいもの。
それぞれの思いを胸に、
彼らはそれぞれの帰路に着いた。
帰る場所がある。
それだけは、確かだ。