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第279話 帰路

酒屋は、大きな廃墟にいた。

思いの溜まった廃墟だ。

この廃墟が廃墟でなかった頃は、

さぞかし、多くの人々がいたに違いない。


酒屋は耳をすませる。

酒屋の酒屋たる、神経を集中する。


この廃墟はホテルだった。

大きな酒の池があり、

酒の池の底は…朱塗りであり…

満たされた酒の上に、新しい木の匂いのする船が浮かび…

人々はそこで宴をした。


酒屋は、目を開けた。


今、そこは廃墟であり、

朱塗りは剥げ、木の船は朽ち、

厨房は腐るものがないほど荒廃していた。


それでも、思いだけは残っている。


「酒屋さん」

酒屋に声をかけてきたのは、

たまたま一緒になった、廃墟カメラマンとライターという者たちだ。

「取材終わりました」

切れ者そうな無邪気さを持った、ライターがぺこりと頭を下げる。

大きな道具を持ったカメラマンは、帽子を取ってお辞儀した。

「ん、わかった。もうここは壊れる。はよ、行ったほうがええ」

「酒屋さんは?」

「これから、宴の始末や」

「そうですか…では、見学してもいいですか?」

「帰路は確保してな」

ライターは戻る道を確認すると、

酒屋のそばに戻ってきた。

カメラマンは、無愛想にその光景を見ている。


酒屋は、地下の酒の池のあった中心で、

空の酒瓶を一つ、口を上にして、目の高さに持ち上げる。

目を閉じ、酒屋は集中する。

思いは酒瓶にくゆる。

談笑。

酔い。

美食。

絢爛。

浮かれ、騒ぎ、永遠と信じた瞬間。


カメラマンとライターの周りを、

在りし日のホテルが、姿を現してよぎっていく。

それは、ほんの一瞬だ。

次の瞬間には、

在りし日のホテルは、酒瓶に酒として存在する。

もう、あの瞬間は戻ってこない。


廃墟は、ただの廃墟になった。


酒屋は静かに、酒瓶にふたをした。


三人は黙って、帰路に着いた。

そして、ホテルの敷地から出たその瞬間、

ホテルだった建物は、静かに砂になった。

それは、世界の果てを思わせるような風景になった。


「いずれ、ここを地下の植物が覆うやろ…」

酒屋はつぶやいた。

「宴なんぞ、最後はさびしいもんや」

酒屋はしみじみ言った。


「これから酒屋さんはどうします?」

ライターが聞いてきた。

「帰るわ」

「そうですか。また、どこかで逢えるといいですね」

ライターは無邪気に笑った。

酒屋もつられて笑った。

酒屋は帰路に着く…前に、振り返った。

「そうそう、大きな水族館の廃墟があったけどな」

「え、ああ…情報にはありました」

「そこ、水が腐っとるから、やめたほうがええで」

酒屋は忠告すると、

ディバッグをしょって、帰路に着いた。


宴の最後はさびしいもの。

それぞれの思いを胸に、

彼らはそれぞれの帰路に着いた。


帰る場所がある。

それだけは、確かだ。

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