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第275話 夜

どこかの扉の向こう。

花術師は、種をまいていた。

いくつもの扉の向こうに、

花術師は種をまいた。


幻のように、たそがれ時に、

花術師は扉の向こうの世界に現れ、

幻がふっつり消えるように、

花術師は扉の向こうから斜陽街に戻ってくる。

扉の向こうの住人は、

品のいいおばあさんが横切っていったとしか思っていない。

それでも花術師は、種をまいていた。

いくつもの扉の向こうに、

種をまいていた。

この種をまくことが、

花術師にあった依頼だ。


たそがれから…日は完全に沈み、

夜がやってくる。

花術師の種は、そのとき発芽する。

誰も知らない、夜中の町で、

花術師の種は、

星明りと月明かり、

眠りと安らぎに揺られながら、

ふわふわと成長する。

そして、誰も知らない夜中に、

花が静かに開花する。


花術師は、夜開きの花としていた。


夜開きの花は、

あちこちの町に、安らぎの芳香をもたらす。

誰も気がつかないままに、

まどろみ、深い眠りに落ちていく香り。

そして、夜開きの花は、

誰かの夢にふわふわと飛んでいく。

夜の風もない街を、

静かに静かに飛び、

誰かの夢の中、根を張り、夢を糧にして揺れる。


夢を糧にして揺れる、夜開きの花を、

不意に、誰かが摘み取った。

誰か、は、夜開きの花の芳香を味わい、

そして、口元に花を持っていくと、

ぱくりと食べた。

ごくりと嚥下する。

「依頼どおりの味ですな」

誰か、は、つぶやいた。

「夢魔の本当に好む夜開きの花を咲かせるとは…さすが斜陽街の花術師ですな」

誰か…夢魔は、食べた夜開きの花に、満足したようだ。

「あちこちにまいてくれたようで何より。しばらくは食べるに困らないですな」

夢魔は、ひっひっひと笑った。


夢魔は寿命を取らないと決めた代わりに、

いつでも夜開きの花を探している。

命の弦など真っ平ごめんだと思っている。


あちこちに根を張った、夜開きの花。

夢を思い出せないときは、

夢魔が夜開きの花を食べてしまったときだ。

夢を糧にして育つ、

誰も知らない花が、誰も知らないうちに摘み取られてしまっているからだ。


夢魔はまた、夜開きの花を探しにどこかへ消えた。


朝になれば夜開きの花は枯れ、

また、どこかで種となり、

夜開きの花となって、夜に咲く。

そして、誰かの夢で花開く。


思い出せない夢は、

きっと夢魔が知っている。

安らぎと月明かりのまどろみを、

受けて育まれた夜開きの花の糧を、

きっと夢魔なら知っている。

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