どこかの扉の向こう。
花術師は、種をまいていた。
いくつもの扉の向こうに、
花術師は種をまいた。
幻のように、たそがれ時に、
花術師は扉の向こうの世界に現れ、
幻がふっつり消えるように、
花術師は扉の向こうから斜陽街に戻ってくる。
扉の向こうの住人は、
品のいいおばあさんが横切っていったとしか思っていない。
それでも花術師は、種をまいていた。
いくつもの扉の向こうに、
種をまいていた。
この種をまくことが、
花術師にあった依頼だ。
たそがれから…日は完全に沈み、
夜がやってくる。
花術師の種は、そのとき発芽する。
誰も知らない、夜中の町で、
花術師の種は、
星明りと月明かり、
眠りと安らぎに揺られながら、
ふわふわと成長する。
そして、誰も知らない夜中に、
花が静かに開花する。
花術師は、夜開きの花としていた。
夜開きの花は、
あちこちの町に、安らぎの芳香をもたらす。
誰も気がつかないままに、
まどろみ、深い眠りに落ちていく香り。
そして、夜開きの花は、
誰かの夢にふわふわと飛んでいく。
夜の風もない街を、
静かに静かに飛び、
誰かの夢の中、根を張り、夢を糧にして揺れる。
夢を糧にして揺れる、夜開きの花を、
不意に、誰かが摘み取った。
誰か、は、夜開きの花の芳香を味わい、
そして、口元に花を持っていくと、
ぱくりと食べた。
ごくりと嚥下する。
「依頼どおりの味ですな」
誰か、は、つぶやいた。
「夢魔の本当に好む夜開きの花を咲かせるとは…さすが斜陽街の花術師ですな」
誰か…夢魔は、食べた夜開きの花に、満足したようだ。
「あちこちにまいてくれたようで何より。しばらくは食べるに困らないですな」
夢魔は、ひっひっひと笑った。
夢魔は寿命を取らないと決めた代わりに、
いつでも夜開きの花を探している。
命の弦など真っ平ごめんだと思っている。
あちこちに根を張った、夜開きの花。
夢を思い出せないときは、
夢魔が夜開きの花を食べてしまったときだ。
夢を糧にして育つ、
誰も知らない花が、誰も知らないうちに摘み取られてしまっているからだ。
夢魔はまた、夜開きの花を探しにどこかへ消えた。
朝になれば夜開きの花は枯れ、
また、どこかで種となり、
夜開きの花となって、夜に咲く。
そして、誰かの夢で花開く。
思い出せない夢は、
きっと夢魔が知っている。
安らぎと月明かりのまどろみを、
受けて育まれた夜開きの花の糧を、
きっと夢魔なら知っている。