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第89話 器用

これは斜陽街から扉一つ分向こうの世界の物語。

赤く細かい細工の彫られた扉の向こうの世界の物語。


清水あかね、という女がいた。

年の頃20代前半。


彼女は料理を習いに、小さな料理学校に来ていた。

彼女は料理に関しては初心者だった。

それでも、何かと負けず嫌いな彼女は、

一生懸命に料理を習った。


そう、彼女は負けたくないのだ。

同じ料理学校にいる、あの男に。

おばさん連中がたくさんいる中、

男である、あいつは異質だったが、

何より、あいつは器用だった。

あかねは負けたくなかった。

だからいつも必死だった。


男は見た目は同年代頃だろう。

少しあかねより背が高く、

顔は…それなりか。


ある日、料理学校でお菓子を作っていた時のこと。

あかねが、あとは焼くだけになるまで整えてから、

一息ついた時。

「あかねさん」

と、男の声がした。

振り返ればあいつがいて。

「俺の、もう焼けたんで食べてみてくれませんか?」

彼の手には焼きたてのお菓子がある。

多分、あかねのものよりも、おいしいのだろう。

あかねは意地を張って、

「まだ手が汚れてるから食べられないよ」

等と言う。

「じゃあ、口開けて下さい。あーんって」

「誰が!もういい、自分で食べるから!」

もぎ取って食べたお菓子は、確かにおいしかった。

負けず嫌いな以上に、嘘の嫌いなあかねは、

「…おいしかった」

と、ポツリと言った。


「あかねさんに一番に食べてもらいたかったんです」

男は言う。

「どうして」

何の気なしに、あかねが問えば、

「あかねさんのこと好きですから。自信作を真っ先に食べてもらいたかったんです」

「…何…」

「え、だから自信作だから…」

「その前!」

「ああ…」

男は納得したらしい。

「あかねさんが好きですから」

手先の器用な男は、笑いながら言った。


「そんな事勝手に言わないで、こっちには…」

言いかけ、あかねは口をつぐんだ。


こっちには?

自分は何を言おうとしただろう。


あかねはそのまま黙ってしまった。

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