とある日曜日、夕刻。
トライエ市にも領主がいる。
メルリア王国ゼッケンバウアー伯爵。
ゼッケンバウアー伯爵領の領都がトライエ市だ。
ラニエルダはこのトライエ市の市外すなわち城壁の外にある。
雑多な都市であったトライエを強固な城塞都市に造り替え、その城壁内に市制を敷いた。
これをもって「トライエ市」と呼び習わす。
それもかれこれ50年以上前の話だという。
現伯爵の先々代のころらしい。
しかし城壁内は決して広いとはいえない。
野菜は多くを外の農村から輸入している。
そして肉はいつも不足していた。
領主トーマス・ゼッケンバウアーは今日の夕食が運ばれてくるのを眺めていた。
すでに食堂の祭壇には聖水、白パン、干し肉がセットで置かれている。
「ラファリエール様へ、日々の感謝を捧げます」
「「「毎日、見守ってくださり、ありがとうございます。メルエシール・ラ・ブラエル」」」
領主の低い声に続き、奥様と子供たちも聖句を唱える。
奥様のキャシー、10歳の長女マリエール、6歳になる次女エレノアだ。
「領主様、本日のパンにはこちらのノイチゴジャムをお使いください」
「ノイチゴか、ジャムになるのか? 見たことがないんだが」
「はい。騎士の一人が城下で見つけまして、お土産に持ち帰ったものです」
「ほう?」
「なんでも東門の外にあるドリドン雑貨店なるお店で数量限定であったそうです」
イチゴは市内にも生えているには生えているが、ジャムをビンに詰められるほどに群生はしていない。
そのためリンゴジャムやブドウジャムは見たことがあるが、ノイチゴジャムは見たことがなかった。
外のスラム街と河川敷には生えているが、市内の人間にとって城門の外というのはモンスターが出る危険地帯という認識なのだ。
よくそんなところにスラムの人は住んでいると内心は思っている。
「ふむ、どれ」
領主はパンにジャムをたっぷり塗った。
半透明の真っ赤なイチゴジャムは見るからに美味しそうだ。
それを見て奥様と子供たちも真似をしていっぱいジャムを塗った。
「ノイチゴは子供のころ、よく採って食べたな。うん、実にいい匂いがする」
「ふふ、小さいころを思い出しますわね、トーマス」
「ああ」
領主の言葉に奥様が答える。
領主館には広い庭があり、一部にノイチゴも自生していた。
これらは意図的に残されており、主に子供たちのおやつになる。
二人は小さいころ一緒にノイチゴを採って食べたことがあるのだ。
今ではイチゴのように甘酸っぱい思い出だろう。
まとめて採ってジャムにするという発想はなかったし、それほどたくさん一度には実らない。
食べるといっても、一粒ずつなので量は少ない。
パンを食べる。
「うむ、うまいな。甘味と酸味のバランスが素晴らしい」
「美味しっ。お父様、これ、すごく美味しいです。イチゴの味が口いっぱいに広がって、まるで楽園です」
「もうエレノア。そんなに? んんんっ、本当、すごい、美味しいわ」
エレノアもマリエールもそのイチゴの味に目を見張る。
一粒口に入れたときよりも、ずっと濃厚で風味が豊かだったのだ。
リンゴのジャムも食べたことがあるが、これでもかと入れてある砂糖に負けていて、砂糖漬けのようになっていた。
それも悪くはないが、砂糖の塊を食べているようで、めちゃくちゃ甘くて、風味もなにもない。
これはまるでイチゴに包まれるような匂いがたまらない。
甘さも控えめであり、領主が言ったように酸味と甘味の絶妙なハーモニーは食べたことがないほどだった。
そしてサラダなどを食べて、メインディッシュとなった。
「領主様、本日は大イノシシのヒレステーキにございます」
「ほう、もう鶏肉には飽きてきたからな。それはいい知らせだ」
鶏肉に飽きたというのも、他の都市からしたら贅沢な話だった。
ブタ肉もたまに食べられているが都市内のブタの数は少なく、潰すのを飼い主が渋るため、めったに口にすることはない。
これは領主であっても同じだ。
領主が数少ないブタ肉を独占しているなどと噂になったら、後ろから刺されてもおかしくない。
食べ物の恨みは怖いのだ。
代わりに何の肉かよくわからない輸入物の干し肉が幅を利かせている。
干し肉は多くがヒツジ肉と言われているが、実際には魔物肉も少なくない量が流通している。
中には食べるには勇気のいる魔物肉も交ざっているのが真実らしい。
領主の食事に干し肉ばかりというわけにもいかないのが見栄というものだし、料理長のプライドでもある。
八年前、エルダニアがモンスターのスタンピード――暴走によって壊滅した。
エルダニアの多くの領民が周辺の街に避難民として流れてくることになった。
南方であり隣の都市であるトライエ市にも多くの避難民が集まってきた。
炊き出しなどの緊急措置はトーマスの指示のもと行われたが、治安の悪化を恐れて市内、つまり城内への避難民と思われる人々の立ち入りを制限した。
当然として城門前に取り残された避難民は、いたしかたなく城門の外にあばら家を建てて生活するようになった。
食料の配給は長く続いたが、しだいにイルク豆に一本化された。
しかししわ寄せは市内にもおよび、食糧不足は深刻だった。
特に肉類は非常に制限されていた。
そこでトーマスは領主主導でニワトリ小屋を建設して、卵および鶏肉の生産を強化した。
卵を産ませるためにメス鶏を飼育したいのだが、ヒナの雌雄の見分けは困難だった。
雌雄混在のヒヨコを育てることになり、結果として余ったオス鶏は鶏肉にされた。
それが鶏肉の生産のすべてなので、領主館以外では冒険者ギルドなど少数の店にしか流通していない。
領主はその鶏肉を毎日のように食べられるため、贅沢ではあるがもう飽きてしまっている。
冒険者ギルドの酒場では唐揚げ定食は500ダリルという一番安い値段の定食で食べられるが、これは領主の支援があって実現していることだった。
当初は早い者勝ちであったが、いつの間にか若い新人冒険者に優先するという不文律ができ、ベテランはめったに注文することはない。
ベテランは代わりに少し高いラビットの唐揚げ定食などを注文している。
値段はラビットのほうが高いのに、鶏肉のほうが好きな冒険者も多い。
「ヒレステーキは最高だな」
「はい。これも冒険者が近くの森でイノシシを仕留めてきたものです。なかなかの大物であったと聞きます。さぞかし腕のいい冒険者なのでしょう」
執事の返答に満足そうに領主は頷いた。
「ふむ、そうか。定期的にイノシシ狩りをしてほしいものだ」
「お肉柔らかくて美味しいね、お姉ちゃん」
「そうね。鶏肉以外のお肉もこうして食べられるのはいいことだわ」
姉妹もご満悦の様子で最高部位のお肉を堪能したのだった。
エドたちが取ってきたイノシシ肉はこうして領主の食卓に上り、大いに領主一家のお腹を満足させるのに役立ったという。