「王者殿!!」
下敷きにしていた花子から転げ落ちたカラスナは四つん這いのまま、仰向けに倒れた義人へ向かう。
そして覆い被さるように飛びつくやいなや、迷うことなく両手指の先に付けた聖具の先をその胸へと突き込むが。
心臓へ押し詰まった濃密な呪が爪に滾る治癒の力を握り潰し、パギン。爪そのものへ亀裂を刻む。
それでも構わず、懸命に寿を掻き出し掻き出し掻き出したが、わずかな手応えどころか池どころか海へ挑むかのような無力感ばかりが返り来て……
「あなたは生きるのでしょう!? あたくしに約束を違えさせるつもりですか!?」
腹が立ってしかたがなかった。卑劣な呪師へよりも、勝手に己をかばったあげくあっけなく死んだ王者へ。
戦場で役に立たなさげな異相のくせに! あたくしに生涯消えぬ疵を負わせるつもりなのですか!? そんな
無駄な努力を続ける中、ついに爪先が呪に砕け散らんとした、そのとき。
「待て」
と、短に告げた花子が竜化した両手をもって、カラスナの爪を王者の内から強引に引き抜くではないか。
「竜魔っ!!」
いったいなにをする!? このまま王者を死なせろと!? 焦燥に駆られてなんとかもがき抜けようと身を捩り、あげく花子の脚を蹴りつけ膝で腹を突き上げたが、朱鱗で鎧われた竜魔はびくとも揺らがない。
「聞け」
静かに、されど叫ぶよりも強く告げた花子が牙を剥き、言の葉を継いだ。
「君があたしを嫌ってるのも信じないのも知ってる。それでも、聞け」
混乱を置き去り、治癒院を抜け出た呪師は引き寄せられるがごとくに一点を差して進む。
萎えた脚は勝利を決めてなお思うように動いてはくれなかった。よろめき、何度も煽れ込むが、それでもなんとか立ち上がり、歩き続けて。
森の名なし――いや、もう名なしではない。
己は王者だ。王者になったのだから。
王者。その称号にはなんの価値も感じていなかったはずが、いざ獲てみれば胸の真ん中でキラキラ輝いて、ピカピカした力が湧き出てくる。
青い空をぬるんだ。エルフとニンゲンの血で赤く赤ぁく、真っ赤っ赤にするよ。
……空は広いし、エルフとニンゲンだけじゃ足りないかな?
でも、みんなの血みぃんな使ったら足りるよね?
だから世界のみんな、王者がころすよ。
王者はもう名なしじゃないから、すごい力があるから、ころせるからころすから。
みんな血を全部吐き出して、王者とおんなじ真っ赤っ赤になぁれ。
己を苛んだ長を、それを見過ごしたエルフを、エルフを救った人間を、それらが生き続けることを赦した世界への怨恨。それこそが呪師を今の今まで突き動かしてきた靄の得体だ。
憧れた空の青を己が流してきた血の赤で穢したい。願いは今や妄執と成り果せ、呪師そのものをひとつの呪物と成り果てさせていて。
されど対象者が増えるほど、呪の効力は薄まる。しかもここまで調えた状況の中、呪師の呪は王都の民を誰ひとり殺害するに至らなかった。天賦の才があれ、怨恨を滾らせた程度で世界中のすべての種を呪殺できようはずがあるまい。
まったくもってその通りなのだが。
今の呪師には思い込みという名の力があった。
多くの怨恨を
とにもかくにも“薪”が積まれた場所へ急ごう。人間とエルフがひしめく王城へ。
いったいどれほど高く燃える?
森にいる長とおかあさん役の女にも見えるだろうか?
見えようはずがない。ふたりは呪師の怨恨と強く結びついている。呪は真っ先にそれを辿り、ふたりへ届くから。
どんな顔で死んでるか、楽しみだね。うん、すっごい楽しみだ!
かすれた声音でかさかさと嗤いながら、呪師はぎくりしゃくりと歩を刻み続ける。
……現世で竜魔と癒師とがにらみ合うその真下、義人はその命の残り火をも躙り消されようとしていた。
どこまで続くものか知れぬ闇へと沈み込んでいく中、彼は垣間見る。
もっとも大切な者たちと出合った、かけがえないあのときのことを。
目が醒めた途端、義人、いや、このときにはまだ義人ではなく、別の名であった13歳の少年は理解する。
クソみたいな昨日が終わり、クソみたいな今日が始まったのだと。
というか、寝たのは今日の朝で、掃除のその字も書きつけたことがないような汚れに汚れたワンルームの内はもう暗い。
1日をやり過ごすことすらできなかった現実を突きつけられ、腹が立ってしかたがなかった。
『クソがよっ』
吐き捨てて、クソな気分を抱えたまま外へ出た。
胸に詰まったクソを忘れる唯一の方法は、誰かを己よりもクソに落とすことだ。殴って殴って殴って、相手がアスファルトへぶちまけた胃の中身へその顔面を押しつけてやる。
母親に連れられ、父親から逃げ出した5歳の義人の身体は無数の瘤と痣と疵とを刻み込まれていた。
それでようやく普通に暮らせるようになったが、それも義人が小学校へ上がるまでのことだ。
彼は壊滅的に空気が読めず、他人の感情の動きも理解できず、学習の才能すら大きく欠けていたのだ。
そうなれば当然、子供社会から追い出される。
学習意欲も態度も最悪、いくら言い聞かせてようと理解せず、殊勝な振る舞いさえできない彼は即座に問題児とされたばかりか、いないものと扱われるようになったのだ。
こうして彼は完全に孤立したわけだが、それだけならば大きな問題にはならなかっただろう。
そう、教師の目が“異物”から逸れたものとクラスへ知れ渡り、どれほど健全な心であれ耐え切れようはずのない、陰湿に過ぎるいじめが始まりさえしなければ。
ただし、それすらも長くは続きはしなかった。
クラスの主立った生徒を義人が突然、次々と殴り倒せばこそにだ。
不幸中の幸いというべきか、その中にいじめへ加担しておらぬ者はなかったが、それにしても。
相手のように知恵が回らず、うまくしゃべることもうまくできないから、しかたなく殴った。
彼からすれば追い詰められた末の逆襲なれど、「暴行」はそればかりで彼が同級生から受けてきた暴力を無かったものとし、そして。
『もう好きにしなさい』
母親もまた、なにひとつまともにできず、夫さながら暴力へ頼った息子に手を伸べることを放棄し、見放したのである。
それ以来、ほぼ学校へ行くこともないまま中学へ上がり、母親が息子の子供部屋……実際は隔離部屋として用意したアパートの一室で、長い1日をやり過ごすばかりの生活を送っているのだが。
社会からはみ出した者は、大抵同じような輩や反社会的勢力へ迎えられるものだ。だというのに義人が放っておかれる理由は、とどのつまり適正が欠けていたからに他ならない。
ジャンル問わず、組織や集団の内でやっていくには、それこそ他者との縦関係と横関係を正しく保つ必要がある。
才も学ぶ機会もないまま育ち、結局なにひとつ満足にできぬ彼は誰と繋がることもかなわず、受け入れてくれる場へ行き着くこともできはしなかったのだ。
『クソ!!』
煮えたぎる怒りと気持ち悪さとを抱え込み、足を速めて彼は向かう。
この不快と苦痛をわずかにでも癒やすがため、獲物がいる盛り場へ。