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54.呪師(中)

『一度説いたことをなぜ理解できんのだ!?』

『誰が寝ていいと言った!? 開けておれん目ならくり抜いてやるぞ!!』

『我が家の血脈を穢せし忌まわしき犬めが! 赦しを請え赦しを乞え己が生を悔いて我が家と森とへ尽くせ!!』


 物心ついた呪師へ、長は飽きることなく尖った言の葉と蹴りとを浴びせかけ、理解できようはずのない知識の習得を強いた。

 逃げようにもここは何処かの地下へ設置された檻の内。呪師の小さな体ですら2回も転がれば内へ尖先を向けた鋼棘に肉を裂かれ、蹴られるよりも酷い傷を負ってしまう。

 どれほど赦しを乞うても、読めぬ文字を必死に睨みつけても意味はない。かくて蹴られ、蹴られ、蹴られ続ける中、編み出したのだ。

 甲高く泣きわめいて赦しを乞い、弱々しく丸めた身を左右へ転がす。

 本気ではなく、ただの工夫だ。

 蹴りを躱してしまえば長が激怒する。故に急所を守りながら背で受けて。涙と悲鳴はそれを包み隠す演出。


 いや、実際は包み隠す必要などないのかもしれない。

 長は己を殺せない。

 彼奴きゃつが蹴る以上のことをしてこぬわけは、結局のところ己へ大怪我を負わせられぬ事情があればこそだ。

 殺されぬことがわかってさえいれば、やりようなどいくらでもある。


 武才にも学才にも恵まれなかった呪師へ与えられた才は演技であるものか、それとも詐術であるものか。とまれ己が幼き魂へ怨恨をべ、数え続ける。

 蹴られた回数を数え、長の疲弊ぶりからこの先蹴られる回数を数え、か弱く愚図な幼児を演じてやり過ごした。

 そうして長が肩をそびやかして帰っていけば、明日まではその雑言も踵も喰らわずに済む。ここからようやく、呪の鍛錬の時間だ。

 長に強いられる以上の呪を呪師は修め、そして隠していた。

 当然のことながら長の役に立つためなどではない。誰がいるかも知れぬ森のためでもありはしない。

 胸底にわだかまり、己へ『急げ』とばかり告げるどろりと濁った靄のために、幼い身を必死に前へと傾げ、没頭するのだ。




 わずかな変化もない日々がそれなりに過ぎた。

 相変わらずそしられ、蹴られ、強いられ続ける変わり映えせぬ日々の中、呪師は己の歳を考えてみるが、知れようはずがない。

 独学ながら密かに磨き込んだ呪はそれなり以上のものと成り果せているが、成長のための栄養がまるで足りておらず、背はほとんど伸びていなかった。おかげで檻の天井に飢えられた棘で頭を切られるようなこともなかったのだが。


『さ、召し上がれ』

 やわらかな声音で促され、茹でた肉を差し出された呪師はおとなしく座し、茹でた肉が盛りつけられた皿を受け取った。

 それを見た女は声音と同じほどのやわらかさで笑み、目を細めて見守る。


 彼女は呪師につけられた世話役だ。

 地下へ封じられていた呪師のことを以前から気にかけており、長へ世話係となりたい旨を申し出たという、奇特というよりない女だ。

 清潔を保っているとはけして言えない呪師を、細身であることが普通であるエルフらしからぬふくよかな身へ抱き寄せ、痩せた体を拭いたり、もつれた髪をくしけずったり。

 洗い上げられ、木漏れ日に当てられた綿の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、呪師は思う。

“おかあさん”というものは、きっとこのようなものなのだろう。

 それはそうだろう。なにせ女は――いや、まずは喰らおう。彼女の持ってきた、他ならぬ己が呪の試行で殺した猿の肉を。




 長に強いられた試行は獣1匹を呪殺することから始まり、次は5匹、その次は10匹へ……数が増やされれば呪の効力は薄れる。当然殺し損ない、容赦なく靴の踵で渾身を蹴りつけられた。

 その中でいつしか呪師は悟る。

 長が己を嫌悪し、憎悪していることは間違いない。

 が、同時に切り捨てることのできぬ切り札でもあるのだ。


 エルフは酷く閉鎖的な種であり、この狭い森の内に醜悪な格差社会を築き上げている。

 長は森で最高の地位を得たいばかりに呪師の力を利用したいわけだ。


 呪師にはその程度しか察せられておらぬが、実際その程度の話ではある。

 長は氏族内での己が地位を守り、抗争の相手となる他氏族への優位を保つがため、呪師というカードをちらつかせていた。試行はまさにそのための宣伝だ。

 本当は格差社会の底辺に位置する者どものガス抜きに、階級外の卑賤たる呪師を贄とするべきであろう。が、それを実行してしまえば、切り札は千々《ちぢ》に破り棄てられ、あっけなく失われてしまう。


『遣えん下賤が! 努めることすらできぬ能なしが! 弁えろ弁えろ弁えろ!!』

 呪の芯とは怨恨。

 それを呪師へ詰め込むがため、長は無理を押しつけたあげくに蹴り続ける。それこそ刃を鍛造するかのように。

 実際、呪師は強かに鍛えられた。

 蹴られかたや怯えうろたえる芝居は一層うまくなったし、骸を恐れることも、呪で穢れた獣肉を食らってももう中らない。それこそ同族の肉を喰らわされても心身を壊すこともありえない。


 貧弱で貧相な見た目の内へ、呪師は確かな力を育みつつある。

 それにつれ己が底に溜まっていた靄めきも色濃さを増し、じわりじわり胸の半ばへまで達したそれは、過去よりも激しく急かすのだ。

 ――せ。――せ。――せ。

 しかして一層直向きに呪と向き合う呪師だったが、長はそのことに未だ気づかない。当然ではあろう。時をかけて十二分に躾けてきた畜が隠し事をしようなど思いつけようはずがないのだから。

 されど、蹴りつける足裏に返る応えが見かけどおりのか弱いものばかりではなくなりつつあることは、それこそ時をかけてきたからこそ察せられる。


 故に、檻の内へ注ぎ込んだのだ。

 呪師の固くすぼまった心を溶かし、森へ、それ以上に己へ祟ることを忘れ果てさせるがためのぬるま湯を。




『急ぎ過ぎてはいけませんよ。落ち着いてお食べなさいな』

 まさに猿芝居。せっかく胃へ詰め込んだ猿の肉を吐いてしまいそうだ。

 それでも顔ばかりは無邪気を装って、呪師は謝意を告げた。


 別に便利な魔術が遣えずとも、女のすべてから真実が見て取れる。

 呼吸の不自然さからは、女がなんらかの術式で嗅覚を封じられていることが。

 視線の奇妙な動きからは、視覚を歪ませられていることが。

 皿を持つ手や櫛を遣う指のぎこちなさから、触覚も抑えられているのだろう。それこそ穢れた呪師に触れて鳥肌でも立ててしまっては意味がないから。

 そして服からいつも日差しの匂いがするのは、一度訪れるごとに呪師の穢れを吸ったものを棄て、新しいものへ取り替えていることを知られぬためだ。

 女の出自は知らぬが、おそらくは長の身内であるはず。呪師を独占しておきたいからなのだろうが、どうせやるなら洗脳でもして理想の母親に仕立て上げた女を連れてくればよかったのに。


 真でないから見透かされるのだ。

 それこそ呪師が女の真意を完全に見透かし、長が呪師の本心をいくらか見透したように。


 己は誰にも愛されない。

 だから己は誰も愛さない。

 欲のために死んだ父を悼まない。己を守りきれずに死んだ母を愛さない。なにもかもを信じない。悔いない。忘れない。赦さない赦さない赦さない。

 だからもっとうまく隠せ。

 隠せている間は、飯はこうして運ばれてくる。

 隠せている間に、己の呪をさらに磨き込め。

 隠し通せたなら、そのときこそ……

 思いを煮やして滾らせる中、胸の半ばからなおも伸び上がり、ついには喉元へまで這い上がりきたそれが、激しく逆巻いては吠えるのだ。

 ――せ! ――せ! ――せ!

 そのときが来るまで、全身全霊をもって、騙れ!!




 腹を満たした呪師は久々に外へと引き出された。

 女に手を引かれ、歩くことがほとんどないからこそ棒のように細い脚をぎこちなく動かしながら、思う。

 髪を切られるのだろうか? そうすると体も洗われる? 今は冬ではないし、冷水を浴びせられても熱を出しはしないだろう。それに、まだ明るい。これなら木々の枝葉を透かして空が見られる。

 呪師にとって空を見ることは希で、故に楽しみだった。

 暗がりに閉じ込められている自分はそれこそ垣間見るのがせいぜいだが、空は広く、どこまでも広がっているのだという。

 鳥になれたら自由に飛んでいけるのだろうか? そうしたらどこへ行こうか! 幼い頃はそんなことばかり考えていたものだが、今は違う。


 空はあおくてきれいだね。

 でも、あおは“これ”とちがってきれいで、イヤになるんだ。

 でもでも、何回も何回もぬってぬってぬりつぶしたら、これとおんなじになる。

 そしたらみんないっしょで、みんなイヤじゃなくなって。

 うん、そうだ。

 みんなみんなみぃんな、これとおんなじになったらイヤじゃないよね!


 噛み締めるように胸中で唱えた呪師は、あわてて弱々しく装い直す。

 喉元から漏れ出してきたものまで危うく噛み締めてしまうところだった。今はまだだめだ。


 母を騙る女の手が離れ、左右から詰め寄ってきた下男どもの乱暴な手で跪かされたのは、あろうことか長の眼前であった。

 どうやら洗われるのではないようだが……彼は口の端を笑みの形に歪め、

『そろそろ処置しておかねば見抜かれようからな』

 わけのわからぬことを言いつつ、短剣を握り込んで近づいてくる。

 やはり髪を切られるのか――いやそのような空気ではありえない――いったいなにを――

 反射的に彼から遠ざかろうとした呪師はしかし、下男どもに抑え込まれて。


『ギイイィイイィイィィイ!!』


 その絶叫は、呪師が母を喪ったあの日にあげた声音さながら、純然なる悲痛を映した代物であったのだ。

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