息を吸うをあきらめた?
義人の様に疑念を抱くシャザラオだったが、それを振り切るがごとく速やかに歩を踏み出した。
王者の紫を帯びた肌を見れば、空気が充分に取り込めていないことは瞭然だ。よもや本当に、息を吸うことばかりか闘うことをあきらめたのか。
だとしても、攻め手を止めるつもりなどない。約束したガチのガチを貫くのみ。
肩に刃を担いだシャザラオは、踏み出しながら低く、それよりも低く、限界まで低く、体を倒し込んだ。
「けぇっ!!」
突き刺す勢いでシャザラオの右足がステージを踏みつけ、前へ倒し込んだ上体が右へ旋回する。
内から外へ、バックハンドで横薙がれた刃は剣先の重さで加速。一周を演じて王者が後ろに置いている右膝へと飛びついた。
一方の義人からすれば、前にはシャザラオがいるため進めず、後に下がれば左の内膝を断ち斬られ、左右へも逃げようはない。まさに四面楚歌……そのはずが。
「っ!」
最後の最後まで肺の奥底へ残していた息を噴き、真上から振り落とした拳で剣の腹を叩く。
不十分な発気であり、姿勢であった。されど体重を乗せた一打は勇者の一閃を打ち墜とし、間隙を生み出して。
義人は左の爪先に全力を込めて右足を捻り込み、今一度右拳を突き下ろしたのだ。
「らあっ!!」
この一打がため、息を残したか!
シャザラオの口の端が跳ね上がる。
生物が挙動するには息と共に気迫を吐くか、あるいは止める必要がある。空気を吸い込んでいる間は全機能が低下し、反応も行動も冴えを失ってしまうのだ。
だからこそ義人は息を止めた。シャザラオが追い打ちに来ることを疑わず、それまで無呼吸で持ちこたえてみせると心を据えて。
タネが割れればこの上なく単純な代物で、故に感服する。
敵を信じて待つ、並ならぬ胆力よ。
だが、己はまだ止まらんぞ。
身を横合いへずらし、掲げた剣の腹で拳を押し止めた勇者は、刃を返すのでなく左の手刀を跳ね上げた。
義人が伸ばした右腕を擦って滑り上がってくる指先。脇下を突かれたなら酸素切れを起こした体が硬直して止まり、続く刃にこの身を断ち割られるだろう。
あれでざっくりいかれちまったら死ぬよなー。
目前にまで迫り来た死は、不思議なほど恐くなかったが、しかし。
この場へ共に臨んでくれた花子とセルファン、それに犬がいてくれる。
この場へガチのガチでやろうとうなずき、対してくれたシャザラオがいてくれる。
守らなければならない約束と同じほど重い、立てなければならない義理がある。
――俺、死んでらんなくね?
「だよな!!」
傾げた首に合わせて自分を左へ大きく傾げ、義人は手刀から逃れつつ一気にぐるりと旋回した。
右を後ろに、左を前に。いや、ただ回ったのではない。回転にはボディブロウ――実際は低い姿勢をとったシャザラオの顔面への左フック――が乗せられており、それは力強い弧を描いて突き立ったのだ。
「がぁ゛っ゛!!」
震え上がった頭蓋が声音を震わせ、シャザラオの顔面が真横へ弾かれる。
しかし。それは強烈なダメージを受けると同時、弾みともなった。
今なお宙にある剣を体ごと振り込み、王者の首筋を狙った彼は、応えを得たと同時に飛び退いて構えを取り直す。
「己を止めるにはまだ浅い!」
わかってるって、そんなんさ。
口の端を吊り上げた義人は、浮かせた左脚を宙で振り、具合を確かめた。
刃は腕でブロックしている。問題は左膝だ。剣閃の下から叩き込まれた回し蹴りに打たれて痺れ、まだ脚が繋がっているのかと疑いたくなる有様で。
いや、幸いにして壊されてはいない。シャザラオの体勢が不十分だったおかげだろう。
マジやばっすわ。
敬服の念を両の手へ握り込めば、その力に呼応するかのごとくに今も正体不明なままの力が絞り出され、彼を固く鎧おうとする。
「ちょっと待った。頼むよ」
義人は眼前へ縦に並べた両の拳へ慌ててささやきかけた。
借りてるだけの俺がえらそーにして悪いんだけどさ、あんますげー力出さねーでくれよ。だって俺もラオさんもガチのガチなんだから。
「え!?」
義人の手の内で荒ぶる力の制御に集中していた花子がびくり、顔を跳ね上げた。
突然、力が凪いだ。
彼女が己の魔力を用いず、手の力を無理矢理に遣っているのは一種のガス抜きのためなのだが、膨大であるはずのその素が唐突に減るなど、あっていいはずがない。
しかし、あるのだ。術式の素を激減させられた義人の腕の守りはすっかりと厚みを損ない、刃どころか打撃すら止めきれまいほど弱まっていて。
なにが起きた!? ああくそ最悪だ! 玲瓏なる竜魔が驚くしかできないなんて!
シャザラオは王者の膝が無事を保っていることを見、思わず息を飲んだ。
あの蹴りには壊せるだけの威力を持たせあった。なのに王者があの程度のダメージで持ちこたえたのは、攻撃によって重心のすべてがかかっていた左脚から咄嗟に重心を抜いたからだ。
シャザラオは悪寒の波動で震えかけた背筋を筋力で無理矢理に抑え込み、詰まった息をようようと吹き抜く。
あれを抑えられた理由など探るまでもない。己の体捌きはヨシト殿に見切られつつあるというだけのこと。
が、当たらぬわけではない。当たる内に、決める。
踏み出され、踏み込まれたシャザラオの右足はしかし、今度は突き立つことなく軽く床を蹴った。
跳躍からの回し蹴りはダッキングで潜られ、次いで振り下ろした剣はヘッドスリップで躱されるが、それでいい。連撃で身を回転させた彼はその身をもって王者へと覆い被さりに行く。
取りつかれれば首を掻かれる――とはさすがに思いつけない義人だが、「マジでやばい」までは感じ取っていた。
今シャザラオが突き出した右膝は囮。ちらつかせている左手も囮。右手の剣も囮。が、それらは状況に応じ、どれもが本命と成り果せる。
すべてをやり過ごす神懸かった手段など思いつけるはずがなかった。だから他への対処はすべて棄ててひとつに絞る。そう、被さってきた膝へ。
「しぃっ!」
かくて気迫を噴き、左フックで勇者の膝を内へ押し曲げたが、しかし。
甘い!
シャザラオは姿勢を崩しながらも剣を振り下ろし、義人の左肩を打ち据えた。
防御術式がかろうじて刃の侵入を阻んだが、衝撃までは止まらない。
「ぢっ!!」
押し込まれた波動が肩を押し詰め、みぢり。関節から湿った悲鳴を絞り出させた。その不快と痛苦は彼の挙動を喰いちぎり、思考を引き裂かんとしたが。
「ぁがああああああっ!!」
悲鳴を咆吼へと変えた義人が打ち返した右拳、その一閃が勇者の胃の腑を突き抜いて。
「っぐぅっ!!」
シャザラオは受け身を取れないまま背から床へと叩きつけられ、みぎり。肋がきしむ音をその身でもって味わわされる。
まさに痛み分けという様相であったが、ただそれだけのことに過ぎなかった。
「ああ、酷い苦痛だ。なれど己はまだ動くぞ!」
切先を床に突いて跳ね起きた勇者が爪先をもってスピンターン、あえて切先を一点へ据えずに旋回しつつ、3メートル先にある王者へと押し迫った。
「クソ痛てーけどっ! 俺だって動くっての!」
いつ放たれ、どこへ向かうか知れない勇者の鬼手、見切れようはずがない。
故に見切ることを放棄して、義人は前後に置いた左足と右足とを交互に入れ替えるアリ・シャッフルを演じて待つ。敵の攻めがどこから来ようとも左右いずれかの拳で強打を為し、打ち落とす構えである。
先手はシャザラオ。見る者の誰もが思ったはずだ。
しかし。
先に打ったのは、待っていたはずの義人。
降り落ち来た左拳を潜り抜け、シャザラオがついに剣を繰りだした。
全力の拳打であることは肌感で知れる。つまり追撃が繰られることはありえない。
もらったぞ、ヨシト殿!!
王者の左腕へ添わせて斬り上げた刃は、もうじきに脇へ届いてその腕を斬り飛ばすだろう。そのはずが、いつまでも、届かなくて。
これはいったいどうしたことだ?
疑念の濁りは次の瞬間噴き飛んで、すげ変わった恐怖が防衛本能をでたらめに打ち鳴らす。
いや、報されるまでもなくシャザラオは見て取っていた。
王者全力の一打が、こちらの一閃と同じ迅さで引き戻されていく様を。
義人は小さなステップでもって足の位置を変えて身を遠ざけながら、逆に右半身ごと右拳を送り出して。
前へ出した拳の威力は当然、後ろに置いて溜めを作った拳に大きく劣る。が、利き手が右ならば、そのデメリットはかなり軽減されよう。それどころか飛びかかってきた敵を迎え打つ――すなわちカウンターが取れるなら、ゼロにできるどころかプラスへ転じさえする。
すべてを承知した上で、シャザラオは剣を戻さず逆に伸べた。
ここで刃を引いたとて逃れる術などない! 斬り抜くのみよ!
義人もまた迷いなく右拳を突き抜く。
ちっとでも引いたら押し潰されちまう! ふっとばせ!
「おおおおおお!!」
勇者の剣閃は義人の防御術式を断ち割ってその左肩を深々と抉り。
「しゃああああ!!」
王者の拳閃はシャザラオの左の鎖骨を打ち下ろし、へし折って。
互いの脇を踏み抜けた両者は再び3メートルを空け、対峙した。
「なんすか今のくるくる回るやつ! マジやばいっすね」
鮮血を噴く左肩を押さえて義人が言えば、
「あの迅さで左右を切り替えるなど、まさしく化物よ」
鎖骨をへし折られ、左腕を力なくぶら下げたシャザラオが苦笑する。
周囲を囲む者はひとりとして、声援を送ることもブーイングを飛ばすこともないまま押し黙っていた。
正直なところ、なにを言えばいいのかわからなかったのだ。
こうなれば思い知らされる。自分たちはまさに、この決闘を縁取る端役に過ぎないのだと。
同じように無言を保つセルファンだが、それは今、180拍を正しく数えることに専念しているためだ。
あと90! 出血を止めるのは掟に背く? いや、随時の処置は認められているから問題ないはず。次の休憩ですぐ飛び出して竜魔殿に助力を請おう。あと85、84、83……
どれほど情けなくてもいい。自力が足りない分だけ他力を使う。その覚悟だけは決めて、唱え続ける。