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32.苦闘

「あたしの策は徒労だった。最悪だよ。君、剣がどれくらいの速度出すかわかってるかい? しかも勇者の剣だし、見切れるわけないよね! 剣道三倍段とか聞いたこと……あるわけないか」

 ため息交じりに言った花子は、剥き出された義人の両手へ文字を書きつけるように指先を這わせていった。

 義人は眉根をぎゅっと下げて口をへの字に結び、耐える。注射に臨む小学生男子を思い出してしまうのは、その表情のせいだろう。

 それでも編み上げられた術式が染み入るにつれ手の痛みは減って、彼は薄目を開けて口元に入れすぎた力を少し緩めて先輩へと言い返す。

「すんませんっす。でもあのまんまじゃガチじゃねーんで」

 自分のものとなった自分のものではない手を見下ろして、小指から順に1本1本指を握り込んでいった。完成した拳へさらなる力を込めれば、花子の術式で鎮めきれなかった魔力がぶわり。霞となって空に立ち上る。

「力、使いたくねーんすけど。それってガチじゃねーんすよね」

 剣を取ったシャザラオとやり合うには、こちらも手の力を解放しなければならない。それはそうだ。刃が当たれば大変なことになるなど、義人ですら想像できる。ただ、心がわかりたくないと駄々をこねていて。




「義理と人情」を背負う以前の義人は死にかけていた。体ではなく、心が。

 わかってはいてもどうしようもなくて、ただただ暗い方へと全力で駆け込んでいくばかりだった彼はしかし――太ましい手に掬われて、救われた。

 そうして生きることをひとつひとつ学び、魂に刻み込まれたものこそが、ガチ。

 狡いことは考えない。汚いことはしない。この体ひとつで真っ向から、それしか能のない「殴る」を全力でやり抜く。そして。

『殴るだけ殴って殴りきったって思ったらよ、その後――』

 オヤジとした大切な約束を果たす。

『大丈夫よぉ! アンタはやったらできる子なんだからぁ!』

 かーちゃんにもらったサムズアップへ応える。




「君のガチは君だけのためのものか?」

 ふと追憶が断ち切られ、義人はうつむけていた顔を上げる。

 すると、それはもう恐い顔をした花子が待ち受けていて、竜爪の先を彼の額にぐりぐり。

「先輩いてーっすマジこれ穴空いちゃうっすって!」

「躾だ躾。言って聞かせたって憶えらんないだろう君は」

 腹の底に溜まった苛立ちをため息で追い出して、花子は言葉を継いだ。

「あたしと犬はいいよ。でも、君のガチをあれだけ尊重してくれた勇者と、君たちのガチのガチを実現させるために体張ってくれた王子への仁義はどうする? 君が大好きな義理と人情はどこにいった?」

 ああ、言いたいことが終わらないし、単純バカの「よくわかんねーんすけど顔」は一層深まり、「ガチわかんねっす顔」へと進化を遂げていく。加えて言うなら、義人の両手の昂ぶりも止まらない。

 困ったことだらけで腹立たしいこと尽くし。せめて義人がもう少し頭脳はだったらと思ってしまわずにいられなかったが。

 どうしようもないしなぁ。後輩くんは後輩くんなんだから、

 つまりあたしが伝わるように伝えるしかないってことだ。


「後輩くん」

 彼女は爪先を額から抜いて拳を作り、それをもって後輩の胸元を軽く小突く。

 竜魔の拳が為したゴブリンの礼。そこへ含められた意味については「よくわかんねっすけど」と言うよりないのだが、それでもなにか答えなければと焦って。

「あの、俺」

「難しいこと考えようとするなって言っただろう。君は君らしく、ガチとかマジとか頭悪いこと連呼しとけ。考えたってひとつもうまくできないんだし」

 後輩の考え全部を見透かしておいて、花子は彼の手の甲を爪先で掻いた。

 義人には当然見えていなかったが、彼女の先端からは細く縒られた超高密度の術式が送り出されて手の内の力へ刺さり、生地を縫うようにしてシルエットを整えていく。

「ぅー」

 歯を抜かれるような不快感が義人の両手に沸き立ち、ずるり。得体の知れない力が這い出してきた。それは速やかに彼の両腕を肩まで覆い、靄めきをまとわらせた。

「犬のときみたいに腕を防御術式で固めた。ボクシングって肩までは守りに使っていいんだろう? もし違ってても異世界ルールだし、文句は聞かない。あと、タイマン見てて気がついたことは的外れでもとにかく言うし」

 まくしたてた言葉終わりに合わせ、花子は義人の尻をぱぢんと引っ叩いた。

「君はあたしの都合押しつけていいって言ったんだからな。都合つかなくなるし負けるなよ」

 ここで一拍溜めて、低く強く。

「ガチのガチ、見せてこい!!」




 心身の準備を調えたシャザラオはステージ中央へ立ち、右手に握った剣の切先を前へと押し出して待つ。

 そこへ歩み寄った義人は、言葉もなく右の拳を前へ。敵の切先に軽く突き合わせ、一歩を引いた。

「勝つっすよ」

 これまでのアップライトでなく、クラウチングスタイルに構えを変えたのは、両腕でしっかりと防御を固めるため。加えてその際に上体を動かしやすく、逃がしやすくするためだ。

「負けんよ」

 一方のシャザラオもまた一歩を引き、重心を押し下げる。

 あと少しで四つん這いになるほど深く低い構えは、跳躍するのか滑り込むのか、いずれにせよ鋭い挙動で敵を押し込む心づもりと知らしめていた。

 こうして互いに思惑を晒し、息を絞って弾みをつけて――動き出す。


「おおおおおっ!!」

 野太い気迫を吐きながら、シャザラオが義人へ打ちかかり打ちかかり打ちかかった。

 攻めの切れ間で一拍置く間にも躙り出した爪先を八方へずらし、視線を散らし、剣を揺らし、気迫を伸べて、すべてに乗せた「攻める」の本気でこちらを釣り出しに来る。

 乗ったら引きずり込まれてしまう。義人も十二分に理解していた。だというのに。

 両足に左手を加えたシャザラオの移動は押し出された油さながらだった。なめらかでやわらかく、速度の程を感じさせない流動。

 気がつけば剣の間合へ滑り込まれていて、義人は下げかけていた重心を急ぎ引き上げ、敵を引き離すべく身を引かせたが。

「ふん!」

 半転したシャザラオが伸ばした足の甲が左のアキレス腱へ引っ掛かり、強く引きつける。

 転倒せずに済んだのはただの幸運だ。咄嗟に突き下ろした右足でステージを蹴返し、跳び上がって難を逃れた、そのつもりだったのに。

 勇者もまた跳んでいたのだ。敵の膝頭を爪先で踏み、丸めていた体を伸ばして剣を斬り上げる。

「ぃって!」

 喉元へ迫る刃を両腕のガードでブロックした義人がわめいた。

 花子の編んだ防御術式ですら止めきれない斬撃、生身に喰らっていたならあっさり叩き斬られていたところだ。

 しかし、身の一部を失わずに済んだ代償はけして小さなものではない。衝撃によって両腕の構えが緩み、隙として晒すこととなる。

 当然、勇者はそれを見逃さない。

「じゃっ!!」

 短な雄叫びをあげたシャザラオが突き出した右膝をさらに内へと捻り、回し蹴りを放つ。

「ぅげぇ゛っ゛!」

 腹の左側から胃を蹴り抜かれた義人はたまらず嘔吐き、背中からステージへ倒れ込んだ。

 が、ボクシングの試合のように8カウントまで休むつもりはない。なぜならこのタイマンはなんでもあり。間髪入れずにシャザラオが上から跳び落ちてこようとしていたから。

「ぬあおおおぉ゛え゛え゛っ゛!!」

 気合を入れすぎたせいでまた嘔吐きつつも、なんとかその場を転がり抜けた義人は床を削ぐように振り込まれてきた刃を伸ばした手で受け止めた。そして、なおも押し込んでくる敵の膂力を支えに我が身をもうひと転がし、跳ね起きる。

 うっく。思わず漏れ出しそうになった声を飲み込んだ途端、猛烈なリズムで腹が疼き出した。

 これ、肝臓にもらってたら終わってたか

 もしれねー。と、最後まで思わせてもくれない内、シャザラオの繰り出した剣の切先が右目へと迫り来て。

 反射的に顔を横へ振って左へ躱した義人は、やはり反射的にこの姿勢からでも動かしやすい右拳を打ち返したが……その並外れた反応速度こそが彼をさらなる窮地へと叩き落とす。


 これやばい!

 拳が伸びきらない内に、もう悟らざるを得なかった。

 シャザラオは剣先を外へ払う勢いに自分を乗せ、義人の右腕を巻き取るように時計回り、がら空きとなった右脇へ横へ寝かせた踵を突き込んだのだ。

 後ろ蹴り、あるいはソバットと呼ばれるこの蹴りは、敵の臓腑を深々と抉り込み、意識を奪うことなくただ悶絶させる。それをまともに喰らったとなれば、どうなるかなどわかりきった話だ。

 果たして、ぐぢり。勇者の踵が先に抉られた胃へまたも突き立った。

「ぐぇ――ぇ、げっ」

 横隔膜が引き攣れて息ができない。

 痛い、苦しい、辛い、体の中も心の中も、この3つでいっぱいどころかいっぱいいっぱいになる。

 しかしそれよりも、義人は眼前の敵がおそろしくてたまらなかった。

 見切りようのない挙動も、敵を殺せる道具たる剣をためらいなく見せ札に遣う、練り上げられた戦術も。


 ラオさんマジですげーよ。ほんと、すげー。

 でも俺、先輩の都合ちゃんとするって、約束しちゃったからさ。

 絶対。

 裏切らねーんだ。


 先ほどまでの変則的な挙動でなく、速やかに勝負をつけるための直進を為して迫るシャザラオ。

 その姿を徐々に端を欠け落としていく視界の中心に据えて、義人は空気を吸い込もうとあがくことをやめた。

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