「行くぞ」

　唱えた通り、シャザラオは一気に前へ。二歩で王者へ肉薄し、大振りな右のオーバーハンドブロウ――前に置いた脚の膝を曲げつつ肩の上から振り込むパンチ――を振り込んだ。

　義人からすれば、パンチはもちろん怖いがこの勢いこそが恐い。先日、謁見の間で見たようにぶちかまされればぶっ倒れるよりなく、そこからあの縦一文字を振り下ろされれば全部が終わる。

　故に彼は鳩尾へ迫る重い拳打を左腕で押し受けて内側に払い、自分は敵の外側へと踏み抜けた。

　拳と共に内を向いたシャザラオの目は今、自分を見失っている。

　だというのに、大振りなフックを薙いでこちらの踏み込む先を塞ぎに来たのはさすがとしか言い様がなかった。

　だがしかし。

「ここっ!!」

　義人が振り上げていた右拳を斜め下へと突き下ろす。

　某コミック作品で一躍有名になった右の打ちおろし、チョッピングライトが勇者の横面へめり込んで、がぐっ。太い首に支えられた頭を大きく傾げさせた。

　声もなく呆と口を半開き、開ききった瞳孔をこちらへ向けてくるシャザラオ。それは脳を激しくシェイクされたあげく、言葉も行動も思考さえも奪われた果ての虚無を映した顔だ。

「ちぃいっ！」

　真芯を貫いた手応えを振り払うように拳を引き戻す義人。その勢いに乗せて上体を左へ倒し込み、左拳をフルスイングさせる。

　なんかスッキリしねーとこあるけど、全力でやるって約束したからさ、決めるぜ。

　脚を拡げて体勢を押し下げての左フック＝左アッパーが勇者の顎を突き上げ、爪先を数センチも浮き上がらせて。

「ぎ、むぅ」

　意識をずらされたシャザラオの爪先が床へついた途端に後ろへ流れ、膝から崩れ落ちる――かに思われたが。

　シャザラオおぉおおぉおおっ!!　ゴブリンたちが声音を揃えて彼の名を呼んだ次の瞬間。

「おおっ!!」

　太い声音で応えた勇者は、床に落ちた膝で己を押し出し、前に置かれた敵の左膝へしがみついたのだ。

「やば!?」

　義人は後ろに置いた右足へ重心を移し、なんとか自分を引き下げ、縛めから左脚を引き抜こうとあがいたが、どうにもできない。

　くっそ！　気ぃ抜いてたー！　胸中でわめいた彼だったが、確かに気を抜いてはいたのだろう。しかしながら勇者からすればこの鬼手を決めるがため、ここまで心得のない打ち合いを演じてきたのだ。

　己は倒れん！　まだ、倒れるわけにいかんのだ！

　汝を脅かし、同胞に勇者の誇りを示すまで、絶対に!!

「なにしてるんだあのバカっ！」

　花子は思わず弾き出しかけた舌打ちを押しとどめ、王者のピンチへ乗り出しかけた我が身をぐっと引き戻す。

　勇者の策は見た瞬間に知れた。王者の虚を突いて組みつきに行く……あれこそが一度きりしか使えないかわり、ここぞというときに最高の効力を発揮する、まさに切り札なのだと。

　なんでもっと早く気づけなかった!?　後輩くんの代わりに考えるのがあたしの役目だろうが！

　でも！　それだけのために勇者が６分も我慢するなんて、見抜けるはずないだろう!?

　酷い言い訳だ。そんなことはわかってた。セコンドについた自分がすべきは手の面倒を見るだけでなく、王者の不足を補い、勝利へ導くことなのだから。

　考えろ、考えろ、考えろ。義人に気づかせないままもう一度戦局を覆し、そのまま決めきれる道筋を。

　大丈夫、そのための仕掛けは始まる前から済ませてあるのだから。そのためにも今は――

「後輩くん逃げろ!!　プライドより全力出して引き剥がせぇっ!!」

　片脚を取られながらもなんとか下がり続け、倒れずに耐えてきた義人だが、「くっそ！」、唐突に右足を踏み止めた。

　花子は逃げろと行ってきたが、こうも強くしがみつかれていては絶対に無理だ。せめてこう、頭のいい人だから考えつく秘策があれば――

「って、俺ぁそんなのやんねっす!!」

　自分と向き合った勇者が一度でも逃げたか？

　ない。彼は常に真っ向から全力で向かってきているのだから。

　だというのに、自分は一瞬、安直な逃げを打ちたがって花子にすがろうとした。それは殴るしか能のない自分への裏切りで、ここへ共に立ってくれた花子への裏切りで、こうして相対してくれるシャザラオへの裏切りだ。

　が、自責に浸るのは後でいい。

　今はただ、飛田義人の全力をもって、シャザラオのガチにガチで応えなければ。

　だったら後ろに行ってる場合じゃねーよな。

　行くってったら前だ！

　心が決まれば体も据わる。

「おらあっ!!」

　咆吼を噴いて右の爪先で床を蹴り込み、取られたままの左脚に自重と前進力のすべてを乗せて爪先を躙る。

　充分には足りないながら体を捻り込んでの右拳を敵の鎖骨へ叩きつけ、左拳を逆の鎖骨へ叩きつけて。

「ぐっ」

　細い骨を打ち据えられ、彼の脚を抱え込んだシャザラオの両腕が緩んだ。

「らぁっ!!」

　今一度吼え、シャザラオの鎖骨へ右を打ちおろして、左を打ち下ろせば、ついに必死でしがみついていた彼の腕がずれ落ちる。

　1000人中1000人が認めるだろう、好機。

　だというのに、しかし、だが、それでも……

　なー。なんだよ、これ？

　義人は追い打ちをかけることなく、立ち尽くすばかり。

「ヨシト氏あと一撃!!　あと一撃を!!」

　シャザラオの名を呼ぶゴブリンたちの絶叫を縫い、セルファンの悲鳴じみた声援が飛び込んできた。

「後輩くんなにやってるんだ!?　打て!!　勝たなきゃ全部おしまいだぞ!?」

　その上へ花子の怒声が被さって促し。

「わふぅおわわん!!」

　空腹を訴える犬の切羽詰まった鳴き声が急かす。

　だが、それでも。

　義人は四つん這いになったシャザラオに視線を据えたまま、動けない。

　いや、だってさ、おかしいんだ。

　シャザラオさん、こんなんじゃねーんだよ。もっと強えーしかっこいいしすげーんだって。

　じゃあ、なんでこんなんになってんだよ。

　あーくそ。もうちょいで思い出せんのに、引っかかって出てこねー。

　傍観している全員、なにが起きているものかは理解できていない。だから押し黙り、見ていることしかできなかった。

　無言を詰め込んだ場のただ中、立ち上がったシャザラオがぎこちなくも身を据える。

「……不甲斐ない様をお見せしたが、待っていただくは不要。己とてまだやれる」

「違うんだって。そうじゃねーんすよ。そんなんじゃねーんすよ」

　手心を加えられては逆に迷惑。言外に告げた勇者へたどたどしく言い募りながら、義人は途方に暮れた顔を左右に振った。ほんとにあとちょっとで、思い出すんすよ。

　王者の様に妙な善意がないことを見て取ったシャザラオは、詰まっていた怒気を吐き抜いた。

　ヨシト殿が迷うは己の責。ガチのガチを謳いながら己は真の己を尽くせておらんのだから。

　無意識に左腰へ向かった自分の右手の様へ気づき、引き剥がすように振り戻したシャザラオは、ごまかしたいようにガードを固めたが、もう遅い。

　彼の様を見て、義人は「あ」。

　思い出した！　なんで俺、忘れちまってた!?

　後輩の「俺わかっちゃったんすけど顔」へ、たまらず花子が叫ぶ。

「後輩くんだめだ考えるな！　ステイ！　おすわりでも待てでも伏せでもなんでもとにかくあたしのこと見て言うこと聞けぇ!!」

　しかし。義人は花子を見ず、言うことを聞かず、あげくシャザラオへ問うたのだ。

「ラオさん。なんで剣、使わねーんすか？」

　殴らせておいて脚を取りに来るシャザラオの攻めは、まさに彼であればこその鬼手ではあった。

　だが、降り落ちる拳打に対応もできず、ただがむしゃらにしがみついてくるしかない拙さを見てしまえば察するよりない。

　こんなものが勇者の得意であるものか。

　ならば勇者の得意とはなにか？

　決まっている。

　あの謁見の間で彼に「抜かせるな」と言わせた、彼の象徴たる剣だ。