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29.四景

「180。はいふたりとも60数えるまで戻って休むように」

 花子の言葉を聞いたシャザラオはがくりと膝を落とし、自陣へ這い戻っていく。

 人間側はさすがに失笑し、冷笑したし、セルファンは「あと一手で勝利できました!」と悔しがったが。

 義人は酸素を絞り尽くされて濁りきった息を吐き出し、ふくらはぎを揉み込む。

 あれは危うい流れだった。あと10秒と言われていたら、逆に這わされていたかもしれない。

 マジでタフ過ぎんだろシャザラオさん。

 でもやっぱなんかヘンじゃね? なんか、うん、なんかさ。




「人間どもは実に鼻持ちならん。竜に蹴散らされていながらまだ己を最上と思い込んでいる。危うく汝を独りで立ち向かわせるところだった」

 勇者の無様を人間から隠しつつ、セコンドについたゴブリンのひとりが憤り、吐き捨てた。

 挑戦者は種を代表する者だ。敬意をもって讃えるべきところを嘲笑い、それどころか孤立させていいように嬲ろうとした人間を赦せようはずがない。

「ヨシト殿は違う。竜魔殿も、セルファン殿下もな」

「それは、うむ。確かに」

 シャザラオの言葉は正しい。彼らのおかげでゴブリンはタイマンの場へ至ることができたのだから。彼らは人間だが、義を知っている。

 そうしてうなずいたゴブリンだが、ふと覚悟を決めた表情を作り、言葉を継いだ。

「――許せ。己は先ほど、勇者によもや倒れたなら赦さんと、そう思ってしまった」

 同氏族ではない、別氏族の者が自分などにこうも心を明かしてくれようとは。このまま氏族の垣根を越え、手を携え合って行けたなら……

「気にするな」。そう応えたシャザラオは開いていた右手を強く握り込んだ。

 このまま終わるわけにはいかん。が、ヨシト殿はもう己との背丈の差を克服しつつある。己は次の180拍を持ちこたえられられるか?

 いや、無理だ。

 断じた途端、心が決まった。すでに迷える選択肢などありはしないのだから。

「今こそ見せるぞ。勇者のいじましさを」

 自分へ、そして他のゴブリンへ言い聞かせた彼は、歯という歯をぎりと噛み締めた。




 一方の義人は今もなお思い悩んでいる。

 なんか俺、すっげー大事なこと忘れてんだって。なんだっけな、あれ。あれってなんだよ?

 いや、答を導き出すための式の一部はわかっているのだ。シャザラオがラウンドの最後に空振った縦振りの拳打、あれが関係しているのだということだけは。

「余計なこと考えてる場合じゃないだろうよ後輩くーん! 会場、ぜんぜん沸いてないよどうする困ったやばやばだー!」

 またも思考を花子に遮られて、彼は思わず唇を尖らせた。

「それやばいっすよねーって先輩。俺今ガチで大事なこと思い出してーとこなんすけど、なんでジャマすんすか」

 いつもの彼らしからぬ真面目な顔へ、花子もまた真面目な顔を突きつけてきっぱり。

「邪魔しないと考えちゃうだろう、君は」

 竜化させて重くした両手でもって義人の肩を掴み、「うわマジ重てーんすけど」の抗議も無視して言い聞かせた。

「頼むから考えるな。余計なこと考えれば考えるだけ勝てなくなる。エルバダなんかどうでもいいけど、あたしがいちばん大事にしてるあたしの都合ぶっちぎられたら困るんだよ」

 思い悩めば単純バカのメリットが全部死ぬ。それは間違いのないことではある。が、だからといって本音を聞かせるつもりなどなかったのに。

 なぜ言ってしまったのかは、正直自分でも曖昧だ。説得の威力を上げる念押しがしたかった? 隠しておくのが面倒臭くなった?

 とにかく自分だけの利益が第一だと明かして後輩からの信用を減らすなど、愚の骨頂というものではないか。

 ああもう、あたしとしたことが! あたしとしたことがあああああ!!

 胸の中で転げ回りながら叫び散らす花子。

 いっそもう一度竜化して全部ご破算に……とまで思い詰めかけた、そのときのことだ。

「任しといてください! 先輩の都合はちゃんと守りますんで!」

 義人が顔いっぱいの笑みでサムズアップを飾り、すぱんと言い切ったのだ。

「あたしの都合を君が守るっておかしくないか? そもそも都合の中身も知らないだろう」

 さすがに彼女も指摘せざるを得なかったのだが、しかし。

「そりゃよくわかんねっすけど」

 義人はお得意のセリフで右から左へ受け流し、

「都合なんていっくらでも投げてくださいよ。俺、なんかこう、うまい感じにやりますんで」

 君がうまい感じにできたことなんて一回もないじゃないか。

 しかもあたしの都合って、君にとっては最悪の不都合だってのに。

 胸中でもぐもぐ唱えた花子は、それが漏れ出してしまわないようぐっと息を飲み込んだ。

 君はほんとに君なんだなぁ。せっかくだから利用させてもらうよ。あたしの不義理を隠す蓋代わりにさ。


 花子は義人の包帯が緩んでいないかを確かめ、術式を縫いつけ直す。そして彼の頬を両手で挟み、真っ向から目をのぞき込んで。

「都合より今は勇者だ。あれは本当の強者だよ。ちょっと考えましたくらいの手が及ぶ相手じゃあない。考えるのはあたしに任せて、君はバカ丸出しの全力で行け」

 ぱぢんと頬を叩いて気合を入れてやれば、義人はぐいと立ち上がる。

「押忍っ!!」

 花子はなんともたまらない気持ちで口の端を歪め、後輩の背を見送るよりなかった。

 君にとっては人の都合も立てるべき義理のひとつか。

 それが頼もしく、うれしくて、逆に寂しくて。

 得体の知れないその感情について考えることはやめよう。正解に辿り着いてしまったらきっととんでもなく後悔することになるだろうから。




「うう、ヨシト氏……ヨシト氏……」

 もうなにを言えばいいのかわからず、胸の前で両手を捩り合わせながらうろつくことしかできなくなったセルファン。その後ろで病衣に埋もれ、うたた寝していた犬があくびをしながら顔を上げた。

 まだ終わっていないのか。そんな表情を傾げ、「ぐぅ」と不満を述べる。これではいつ朝飯になるものかわからないではないか。

 そもそもの話、このルールで義人が勝っていないなどおかしいのだ。しかもゴブリンが正しく王者の掟を遵守しているのだからなおさらに。

 ともあれ早く済ませろ。飯は家の者といっしょに喰らわなければいけない。それは犬が決めている掟の中でも特に大切なひとつなのだ。




 ステージの端と端、加えてその周囲で演じられたものを、女王は高みより見届ける。

 無論、声が聞こえるわけではないから見ているだけのことなのだが……なんとも苛立たしい。

 わたくしは常にわたくしを抑え、民のために尽くしてきたのに。なぜそれを妨げる? なぜわたくしの苦心を踏み躙る? なぜわたくしの思いを、わたくしの願いを、わたくしの希望を、わたくしのわたくしのわたくしの――

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