勝負は静やかに、されど緊迫を張り詰めて再開した。
シャザラオから一端距離を取ってサイドステップ、義人は勇者の左へ回り込んでいく。
先ほどは先手を取った次の瞬間、決められかけた。
鼻が最初から潰れていたことはわかったが、だからといってストレートを打ち込まれながら打ち返してくる? あの胆力と覚悟、それに頑強さも、“キコー”などとはわけが違う。
でも、まだまだっすよ。これからっす。
進む足とリズムを刻む畳んだ肘とのタイミングをずらしながら、なお回る。
王者の歩は不規則で、到底読み切れるものではなかった。
ならば読まなければいい。
「ふん!」
歯を食いしばり、大きく一歩を踏み出して、周りを衛星のごとくに巡る義人の腹へ右ストレートを打ち込んで――あっさり弾かれた。
腕を伸ばすほど間合は拡がるが、わずかな干渉を受けるだけで軌道がずれ、当たらなくなる。肉体が完成されてからは久しく忘れていた経験則だ。
頭を振って敵の拳を躱そうとして頬を弾かれた。が、慌てて下がろうと必死で守ろうと次の拳打に貫かれる。ならば。
「ぉう!」
大きく弧を描かせた左のロングフックを振り、敵の出足を薙ぎ払った。
もちろん空振りに終わるが、構わない。打ち合いの技で及ばないなどわかりきっていたことだ。
それでも、いや、それだからこそ、彼は愚直に拙い芸を披露する。
揺れるんだけど揺らがねーっ!
すり足で一歩分下がったシャザラオを見、義人はため息を噛み殺す。
骨が太い。筋肉が厚い。ただそれだけならまだいい。が、眼前の勇者はなにより心が強い。あれだけ翻弄されれば心が弱り、逃げを打ちたくなるのが普通だというのに。
「しぃっ!」
気迫を噴き、繰り出した義人のチョッピングレフトはまたも勇者の顔面を真っ向から貫いた。
しかし、シャザラオの頭は傾がない。目をつぶりもしない。己を打ち抜いた王者の拳を、こともあろうか顔面で押し返して「ふん!」。弾き飛ばし、重いフックを腿へと振り込んだ。
「っ」
畳んだ膝を上げ、ローキックを受けるようにパンチを受けた義人は、打ち返さずに横へ跳び、そのままサイドステップ。続くフックの連打を置き去り間合を空ける。
実際のところ、打ち返さなかったのではない。打ち返せなかったのだ。ついに揺れることすら抑え込み、踏み出してきたシャザラオの圧に押されたせいで。
「さすがヨシト殿と言うよりないが、それでも己は倒せんし、倒れんよ。己はこの場に立つを託された勇者なのだからな」
その言葉に、単純バカですら気づかせられた。
シャザラオの強靱は、彼の心身に依りながら、そればかりのものではない。
なによりも、その背に負ったゴブリンという種の重さ故のものなのだと。
だよな。うん。シャザラオさん、ゴブリン全員のために来てんだ。俺、わかってたつもりだけどわかってなかった。
でも負けねーよ。
負けてらんねーよ。
負けたら義理が立たねー。
ゴブリンの未来だってなんとかするよ。大丈夫。先輩とセルさんがなんかうまいこと考えてくれっから。ってわけで。
「俺が勝つぜ!」
ようやく得られた一拍の中で息を整え、その間に前進してきた勇者へ左ジャブを突き出したが。
シャザラオは丸めた上体を振り、直撃を避けた。
「ふっ!!」
先ほどとは違い、小さく鋭い弧を描いた勇者のショートフックをサイドステップで踏み抜けて、義人は左拳を打ち下ろす。
いい手応えが返ってきても心を緩めはしない。右を追い打ち、左へ繋いで、また右を突いて。10を数えたと同時にバックステップ、息をついた。
今の連打、それほどの力を込めてはいない。迅さが第一で、敵の攻め気を邪魔するのが第二の重点だ。
とにかく苛立たせて怒らせ、隙をこじ開けよう。それができたらもちろん、
「一発ぶち抜く!」
おお、さすがに全部言わずに我慢したか。
進む闘いをステージの際から見ている花子はふむ。鼻をひとつ鳴らす。
手の様子は、普通。内に在る力は暴れることなく安定していた。正直なところ理由は不明だし、だからこそ不気味ではあるのだが……
「ヨシト氏が優勢、ですね」
と、ここでセルファンが後ろから恐る恐る声をかけてきた。
ざわめく心を速やかに鎮め、彼女は背中越しに返す。
「どうかな?」
「……どういうことですか?」
「勇者は強い。体だけでもすごいけど、心もすごい。そんな男が打たれっぱなしでなにもできませんって、さすがに信じられないしね」
そんなことを言えるのは、自分が傍観者だからだということは弁えていた。
いくら殴ろうと割れるどころかわずかに削れる様子もない、巌のごとき挑戦者の心身。それと真っ向から対している義人は、花子が想像もできないようなプレッシャーに追い立てられ、追い詰められているのだ。
次の休憩まであと半分。そこまで行ってくれたら少しはなにか言ってあげられるんだけど。
嫌な予感がする。けれども予知の力など持たない自分の勘だ。万一にも当たるものか、
そう思い込みたい心持ちごと心を炙られ、花子は思わず自分の胸元を掌で押さえた。これ以上、黒ずんだ予感が胸中へ漏れ出さないように。
左膝を狙いに来たフックを半歩分下がってすかした義人は、敵の打ち終わりに合わせて右ストレートを打ち込んだ。
打ち終わりは体勢が一瞬固定され、無防備になる。そこへ合わせたカウンターパンチは狙い過たず、敵の額へと突き立ったが。
シャザラオの顎はびくとも動かないどころか、逆に拳をへし折らんばかりの勢いで押し込んできて。
「っ!」
義人は即座に体ごと拳を横へ流し、敵の突進軌道から自分を逃がした。焦って後ろに下がればあっさり追いつかれ、追い込まれることは明白だ。
これはシャザラオの誘いだったのだろう。どうしても額を打たれるなら、顎が上がらないよう自分を強く押し固めればいい。それができる筋力と胆力とがあるからこその戦術である。
やっと低さに慣れてきたってのにやり返されちまうって、辛すぎんぜ。
思ってみて、義人はすぐさま打ち消した。
シャザラオさんだって俺の高さに慣れてきてんだろ。こいつでやっとフェアってことじゃねーか。
敵が小さく突き込んできたスマッシュ気味のロングアッパーを掌で外へと弾き出し、義人は自分の両脚をがばりと開いた。
腕が砲身なら脚は砲台。自分で自分の移動を封じた替わりに強い支えを得た彼は、深々と倒し込んだ上体を左から振り込む。
果たして送り出されたものは、自分より相当背の低いゴブリンの脇腹と高さを合わせた末の、遠心力をたっぷりと吸い込ませたボディブロウだった。
対してシャザラオは腰を落とし、ガードを固める。
自分の足捌きでは到底逃げられない。受け止めてはじき返し、反撃を叩き込
「ぶ、ぁ゛がっ゛」
――思考がぶつりと断ちきられ、引き締められていた唇が歪んで濁った声音がこぼれ落ちた。
畳んで脇を守っていたはずの肘ががくりがくり、大きく震え上がる。
視線がぎくしゃくと下がり、彼は見た。鉄壁であったはずのガードを突き抜け、自分の右脇へ突き立った王者の左拳を。
よっし、通った効いたー!!
人とゴブリンの臓器配置が同じなのか違うのかは知れない。だからこれはひとつの賭けだったのだが。この一点賭けは功を奏してくれたようだ。
「ぐぅ゛う゛っ!」
詰まった息を無理矢理押し出し、シャザラオが右から左からロングフックを振り回す。狙いの定まらない反撃だが、乗せられた気迫はまるで損なわれていない。
義人はガードせずにサイドステップですかして周り込み、左ジャブふたつで距離を計って右ストレートを打ち込んだ。
ガードの隙間を突かれてよろめいたシャザラオの様に、思い出したかのようにゴブリンたちが高い声を上げる。
「シャぁザぁーっ!!」
それは願いであり、祈りであり、脅迫だ。
勇者のその腕と脚とに力を! まさか倒れ伏すまいな!? 氏族を負い、種を負った勇者がその責務を棄てて! おまえが果たすべき約束された最後へ至るまで、無様を演じることは赦さない!!
わかりきっていることを押しつけてきた同胞へ、再び固めたガードの隙から苦しい笑みを投げるシャザラオ。
心配は無用。重々承知しているさ。己が背負った責務のことはな。
一方の人間は、やはり苦虫を噛み潰した顔を並べるばかりだ。
応援してやる気はまるで起きなかった。むしろ人の王者が人ではなくゴブリンと親しんでいることを疑っている。よもやゴブリンに王者の名誉を捧げるつもりなのではないか?
目の前の決闘が本気に見えれば見えるほど疑いもまた深まっていく。
「ヨシト氏!! ヨシト氏ぃいいぃいっ!!」
そんな中、セルファンの懸命な応援ばかりが虚しく響くが、それも程なく掠れ、擦り潰れて消えるだろう。
ステージ下の有様に気づくことなく、義人がシャザラオに今一度のボディブロウを捻り込む。
「げむっ」
吐き出しかけたものを力尽くで噛み殺し、勇者は自分の右脇を拳から引き抜いて打ち返しに来た。
しかしもう遅い。すでに義人は右のフックを打ち出している。それも腹ではなく、真横から敵の側頭部を狙って。
カツン、あるいはコツン。敵の耳裏へ突き立った拳が立てた音はそれほどにささやかな代物だった。
「が、ああ?」
呆けた声を漏らしたシャザラオはぐらりとよろめき、千鳥足を演じる。
耳裏には平衡感覚を司る内耳が埋まっており、これに衝撃を受ければ人は――結果的にゴブリンも――立っていられずへたり込んでしまう。
だというのに彼はよろめきながらも崩れ落ちず、それどころか義人目がけて突っ込んでくるではないか。
「ぅえ!?」
みっともなくばたついた敵の接近へ義人が対応できなかったのは、完全に決まったものと思い込んでいたからこその油断。
それでも左拳を突き出し、迎撃に行けたのは、シャザラオを過大なまでに評価していたおかげかもしれない。
結果、勇者の突撃は眉間に刺された拳に止められたが。
ぶぉん。低く野太い風切り音が鳴って。
義人はぞくり、背を震わせる。
止められた瞬間、シャザラオが反射的に振り下ろした右の拳――体勢を崩しきっていながら寸分たりとも軸をずらさなかったあの縦一文字が届いていたら、その瞬間に自分は終わっていた。
ああ、そうだ。あれがただのハンマーパンチでなければ……ただのパンチでなければ?
シャザラオさんはすげーよ。
でも、なんかちげー。なんかこう、ガチだけどガチじゃねー感じ。
俺、すっげー大事なこと忘れてんじゃね? あれだよあれ! って、あれってなんだっけ?