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27.一合

「ゴブリンばかりに決闘場の最前を占められていては人の王者がくじけましょう。皆、後押しを」

 それはもう不本意そうな女王に命じられ、残っていた観客に甲冑と長衣まで加えた人間陣がステージの際に集まっていた。

 敬愛心の欠片も持てない異界の醜男――エルバダ人の美的感覚からすれば、ということにしておこう――も、それと向き合う醜怪なゴブリンもその向こうに並ぶ醜悪なゴブリンも、すべてが気に食わない。

 義人からすればアウェイもアウェイな状況なわけだが、まるで気にすることはなかった。

 こうなったらマジでガチやるだけだっての。だよな、シャザラオさん!




「180数える間闘って、60数える間休むを繰り返す。で、闘えなくなったほうが負け。それが決闘の掟だ」

 ステージの中央で行われた花子の宣言へシャザラオと同時にうなずいて、義人は彼女と入れ違う。

「先輩、魔法はなしで頼んます」

「わかってるよ。ガチだしね」

 花子は進み出ていく義人に気づかれないよう、息を吐き出した。

 彼がそう言うことはわかっていた。互いに身ひとつで殴り合うとなれば、それ以上を加えてしまっては公平も公正もありはしない。

 勝手に仕掛けてることもあるしね。とりあえず、手の面倒だけ見とこうか。


 義人の構えは左足を前にし、両手は顔の守りを固めず高い位置に置いたオーソドックスなアップライトスタイルだ。

 ここで彼を後押しする歓声はなかった。かといって静まりかえっているわけでもない。

 周囲を囲んでいる人間は置いておくとしても、ゴブリンたちは出したい声を喉へ詰め、勇者の初手を待ち受けていたからだ。

 そのシャザラオは畳んだ両腕で脇を締め、両の拳で顎を固めたクラウチングスタイル。リズムに乗ることなく一歩、また一歩、すり足で迫り来る。


 ほんと低いんだよなー。

 つい胸の内で嘆いてしまうほど、体を前に傾げたゴブリンの頭は低い位置にあった。しかも腕は太いし、頭蓋も厚い。下手に打ち込めばあっさり自分の拳を痛めてしまいかねない。

 ナチュラルウェイトに拘り、常に自分よりそこそこ以上に大柄な相手と闘ってきた義人。自分よりも背の低い相手と向き合う経験は初だ。

 アップライトを選んだのは、特に視界の下側を開けてシャザラオの姿をしっかり目視するためだが、自分の守りの薄さが頼りなくて、つい縮こまりそうになる。

 って、これじゃ意味ねーだろ!?

 まさに牽制のつもりでジャブを振り込むと。

 シャザラオはその下をぬるりと潜り、そのまま王者の膝へフックを打ち込んできた。速度は遅いが当たれば一発で膝を砕かれるだろう、ハンマーさながらなパンチだ。

「うぉわああああっ!!」

 膝を引き抜くように下げ、義人は左へ回り込みつつ右拳を打ち下ろす。

 それは相手を突き放すと同時に、顎を上げさせ、フィニッシュブロウを叩き込むための標であるが、しかし。

 やばい!! 思ったときにはもう遅い。拳は突き出されたシャザラオの額に弾かれる。

「っ」

 見た通りの固さであり、分厚さであった。衝撃が手背へ噴き抜け、痺れ上がって。

 だが、痛がっていられる暇などありはしない。

 固めていた守りを解いたシャザラオが上体を跳ね上げ、肘を畳んだまま左拳を突き上げてきたのだ。

 肝臓に迫り来る一撃へ痺れたままの右手をかざし、押し受けておいて、義人はバックステップで一歩を下がる。ただ、それ以上逃げはしない。石床を蹴返して我が身を踏み止め、左の拳を下から掬い上げた。

 顎先へ向かわせた拳打は太い腕に遮られ、体を振られて流される。

 来る! 予感への答合わせは強烈な右フック。

 脇腹をあわや突き抜かれかけた義人は膝を落として上体を下げ、畳んだ腕でこれを受け止めた。

「ぎっ!」

 めじりと食い込んだ拳打はおそろしく重く、決めていた覚悟と共に義人はぐらりと傾かされ、左へよろめいて。

 それを迎えるように飛んできた左拳に対し、彼は咄嗟に身を捻り込みつつ右ストレートを被せた。


 王者の拳は遥か上から、それこそ稲妻のごとくに降り落ちてくる。

 今も空振りさせられた己の左腕は止まっていない。そこへ被せられた攻めを止める術はなかった。しかし義人の狙いが鼻であることは見切っている。


 ならばと再び額を突き出すシャザラオだったが、それこそが義人の狙い。

「がっ!?」

 合わせたはずの一点よりもわずかに上を打たれ、彼の顔が跳ね上がった。

 ここに至ってようやく察せさせられる。己は見切ったのではない、見切ったものと思わせられたのだと。

 手首のわずかな捻りで軌道を変えたパンチで相手の顔を上げさせた――これで、

「どうだよ!!」

 噴いた気迫のど真ん中を突き抜け、義人の左ストレートが伸びる。

 重心を浮かされたシャザラオは足を踏ん張ることもできず、ただそれを受け入れるよりなくて。

 今度こそ彼の鼻柱を突き抜いた義人だったが、ふと眉根を歪めて相手の様を見た。

 この手応えはなんだ? べこりとやわらかく、がづりと固い感触は、鼻を打ち据えたものとはまるで違う、まるでそう、厚い壁紙を貼ったコンクリートでも殴ったかのような……

 悩む間にも右フックを重ねに行った義人は「っと!」、突然大きく跳びすさる。

 腹筋がちりりと焦がされた。打ち返された右拳にかすめられたのだ。

 まさに火で焦がされたような熱さを感じながら、義人はもう一歩分のバックステップで間合を開き、構えを取り直す。

 うおー、やっぱシャザラオさんやばいわ。


 一方、シャザラオは鼻血ひとすじ垂らさなかった鼻を指の腹で擦った。

 するとべこべこ鼻梁が揺らぎ、息が噴き抜けるではないか。

 そう、これは息を通すだけの穴だ。鼻骨も軟骨も、数多の戦いの中でとうに折れ砕け、損なわれている。

 そのことに義人が気づかなかったのはつまり、異界人である彼がゴブリンの顔を見慣れていないからだ。勇者からすれば僥倖というものではある。

 しかしながら、返した一打で王者の虚を突いたはずが、かすめるだけで終わってしまった。反応速度もさることながら、たいした心構えではないか。

 まったくもってさすがと讃えるよりないな、ヨシト殿。


 ここに至って、ゴブリンたちがようようと呼吸を思い出す。

 実際、息をする間もなかったのだ。ものの数十拍の間でこれほどに密な攻防が演じられたのだから。

 勇者の奮迅はすばらしい。が、王者の体技もまたすばらしい。先日の宴で王者を認めたからこそ、素直に讃えられる。だが、それでも。

「シャザ、シャザ、シャザ、シャザぁっ!!」

 ひとりが太い声音で氏族の名を掲げれば、他のゴブリンがそれに続いた。

 勇者の背を全力で押す。彼を独りにさせなどするものか。ゴブリンの志は、常に己が背にあるものと知らしめるのだ。


 方や人間側は、相変わらず煮え切らない様子ではあった。

 だが、それでも認めざるを得ない。挑戦者がただの下賤などでないのだということだけは。

 王者が倒されたならどうなる? エルバダの主はゴブリンにすげ替えられ、人間は荒野へ追い出されよう。

 だめだ。赦さない。たとえ異界の者であろうとも、勇者は人を守るために勝たなければならない。それが絶対の義務なのだから。

 靄めいた怒気と焦燥とが場を支配するかに思えた、そのとき。

「奮ってくださいヨシト氏ぃィイイィイッ!!」

 セルファンが力を込めすぎて裏返ってしまった、応援というより悲鳴を響かせたのだ。

 王者だからとかタイマンだからとか、それはいろいろありますよ! でも! なにもできなくてもここにあなたを信じる者がいるのです! そも初代王者は常に多くの人を負い、人々もまた闘う王者を負って――

 ただひとり貴賓席の玉座へ座す女王は、冷めた美貌の奥へひた隠し、息子の愚かしい行いをただ見下ろすばかりである。


 この後睨み合い、牽制し合ったふたりは互いに攻めきれないまま時を過ごして。

「180。60数える間休憩だ」

 花子のひと言で左右へ分かれたのだった。




 ステージの一端に置かれた丸椅子に座り込み、義人はぶはーっ、大きく息を吐き出した。

「まだたったの3分だよ」

 試合用にしつらえた綿のタオルを彼の肩にかけてやりつつ、花子が苦笑する。わかっているのだ。この3分がどれほど濃密な時間であったものかは。

「そうなんすけど! いつぶち込まれるかわかんねーって、ずーっと気合入れてたんで」

 30分も闘い抜いたような疲労感が手足にまとわり、義人をどことも知れない底へ引きずり落とそうとする。

 彼は右手から左足までを順に振って見えない重りを払い落とし、んー。眉を顰めた。

「シャザラオさん体もかてーんすけどガードがマジかてーんすよね。いい感じにぶち抜きてーんすけど鼻もねーってあーもーなんも思いつかねー!」

 牽制し合うだけで終わった後半を思い返しているのだろうが。疲れている彼に今必要なものは体力回復で、不得意な頭脳労働ではあるまい。

 というわけで、花子はまるで違う話を差し込んで逸らした。

「手の調子はどうだい? あたし的には問題なさそげに見えるんだけど」

「押忍、なんもねっす」

 花子は一応術式を忍び込ませ、彼の手の様子を見てきたのだが、継承試練の際にあれほど荒れ狂った手の力はすっかりと鳴りを潜めている。理由は知れない。そうなれば今花子が考えるべきことはひとつだ。

「勇者は歴戦で、底抜けにタフだ。スピードは君が上でも一発で持って行かれかねないってのは君が言う通りだ」

 なにかアドバイスをくれるものと期待して、義人は姿勢を正して「押忍」。

「だから」

「押忍」

「がんばれ」

「お、すぅっ?」

 いや、実際そう言うしかないのだ。魔術を付与できるならいくらでもやりようはあるが、少なくとも今はまだ王者が納得すまいから、今は煙に巻いておくよりなくて。

「ま、それしかねっすね」

 苦笑いして椅子から立ち上がり、義人は大きく深呼吸する。花子のおかげで強ばっていた心が緩んだ。これで次のラウンドへ全力で向かうことができる。

 落ち着いたところで、うたた寝中の犬と並ぶセルファンを返り見て。

 見ててくださいよ。セルさんだけじゃねー。そこにいる全員、でっかい声出さしてやりますんで!

 次いでシャザラオを見てサムズアップ、思いを込めた視線を送った。

 シャザラオさん、まだまだぜんっぜん足りてねーっしょ。もっともっとやり合いましょうぜ。


 60拍を数える前に踏み出してきた王者の様を見やり、シャザラオも立ち上がった。

 椅子を持ってきてくれた同氏族の戦士へ目礼を送り、ふと思いついた顔で言う。

「己はさらに奮うぞ。皆でこの背を押してくれ」

 義人の見切りはおそろしく正確で、且つ迅い。並の人間ならば最初の攻防で叩き伏せられていたはずが、捕まえきれず仕舞いだった。

 ここへ至って最高の敵と対せたことをうれしく思う。願わくば――いや、無粋な願いはすまいよ。汝とのタイマン、楽しもう。

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