「ぐぅぅ」
竜の登場に対して犬は不満よりも猛烈なまでの不快を示し、義人の後ろへ回り込んだ。なにかあればこいつを生け贄にして自分は逃げ果せる! 強い意志を示しながら。
「犬おめーマジよくねーからなそれ!」
膝の裏をぐいぐい額で押してくる犬にわめき散らしながらも、義人は顰めた顔をさらに顰め、自分へ憤る。
あれ、先輩だよな。うわ、ガチでかっけー。
だってのに俺!
なんもできてねー。なんの役にも立てねー。先輩はすげーのに俺はマジすごくねーしガチかっこわりー!
そんな彼の自己嫌悪をよそに、ようやく気力を取り戻した女王は青く冷めた顔を震わせ、竜へと叫んだ。
「民のある中で竜化するなどなんたる暴挙!! すぐに解きなさい!!」
竜の形を得ることはすなわち、竜の力を得ることだ。そしてその力は竜へ近づくほどにいや増していく。
竜化に魅せられ、その習得と応用とに生涯を捧げた術師たちはさまざまな竜の形を成したものだ。されどそれが稚拙な似顔絵程度の仕上がりでしかなかったことを、彼らを知らない女王ですら思い知らされずにいられなかった。
竜魔の竜化術式、他とは物が違う。
指先のみで広間の術式を壊してのけた彼女がここまでの竜化を為したなら、この城はおろか都ひとつ程度あっさりと消し飛ばせるだろう!
凍りついた場のただ中、絶望に震えるよりなかった。
それを流し目で見下ろした竜は器用に肩をすくめてみせて、
「聖女王様の術式がとっても強かったのでぇ、ついつい竜化してしまいましたぁ。謹んでお詫び申し上げますぅ。――半分で止めたあたしの分別に感謝してくれていいよ?」
「半分!? それで半分っ!! ですのね!? このエルバダ第四十三代わたくしに対してなんと無礼な不遜な驕慢なああぁァアァアア!!」
しゃくれた口先に煽られた怒りで我を見失い、少々わけのわからないことをわめき散らして地団駄を踏む女王。周囲の者たちが治癒術式で冷ましにかかるが、どれほどの効果があるものか。
彼女の頭が冷めるのを待たず、竜はやれやれと言葉を継いだ。
「ここからはちょっと真面目な話。君は王者の掟と初代聖女王の遺志をないがしろにしただけじゃない。竜の約束を踏み躙ろうとしたんだよ」
それだけは絶対、赦さない。
言外に含められた意思が、煮えたぎっていた女王の頭を瞬時に凍りつかせた。
わたくしが守るべきは国であり民であり聖女王の矜持! 掟も遺志も、ましてや約束など――
「それ以上身勝手なこと考えるのはやめておくんだね」
竜は人間の頭の中くらい簡単に読めるんだから。言い添えて制し、くるりと向きを変えた。
「ついでにこうしとこう」
がぱりと開いた口が太々しい炎を吐き出し、観客席も競技場の外壁も城壁もまとめて消滅させる。
果たして空いた大穴は、強力な大砲を束ねれば再現できるだろう代物だ。兵器を買い漁れるだけの資金と、準備を調えられる技術者、狙いを一点に集められる砲手が揃えられるならば。
「あ――な――と」
玲瓏なる竜魔の桁外れな力を目の当たりにし、ついに矜持という支えをへし折られた女王が玉座へへたり込む中、花子の声音が高々響いた。
「誇り高きゴブリンの戦士! 君たちのために特等席を用意したよ!」
言の葉が赤く燃え立つ標と成り果せ、そして。
都の柵外と繋がれた穴より雪崩を打って駆け出してくるゴブリンの一群。10、100、1000、速やかにステージの周囲へ半円を描き、片膝をついた。
「お誘いに感謝いたす!」
そして背後へ視線を送り、ひたすらに待つのだ。誰を? 決まっているだろう。
全ゴブリンをその背に負った勇者の到着をだ。
「これでなんとか始められそうかな? やれやれだねぇ」
人の姿を取り戻した花子が義人に問いかけて、眉根を跳ね上げた。
しょんぼりとした彼の顔は、どうだろう。部分的にでなく全身竜化した自分を見て怖くなった、わけではないようだ。それなら怯えているだろうし。
「なんだい景気の悪い顔して」
義人は下を向いてしょぼしょぼと、
「俺、王者だってのにマジくそダセーっす」
未だに王者がどんなものかはわかっていなかったが、それでもこの場を収め、ゴブリンを呼び込むのは自分の仕事だと思っていたのだ。
なのに結局、一から十まで花子に頼り切り。義理が立たないにも程がある。
そんな後輩の胸中をあっさりと読み取った花子は、少し考えてから右手を振りかぶって、フルスイングでばちこーん! 彼の胸元をぶっ叩いた。
「イっ、てェエ!! ってちょまっ、なんかザリってしたこれなに怖いんすけどー!?」
「気合注入とちょっとしたドラゴンサービスだよ」
掌に浮かせた竜鱗を見せつつ、彼女は表情を引き締めて、
「君がやるべきことはなんだ? 女王にかっけーセリフ言いに行くことかい?」
言われてみれば、言われるまでもないことだ。
「ガチですげー試合っす」
後輩が返し来たセリフに花子はうなずいた。
自分の決闘にすごいの枕詞をつけるとはなかなかに不遜だが、それでいい。王者はすごい。だから、すごい試合をするなど当然のこと。
「だったらまずは残ってる観客あっためてこい」
単純バカを動かすのに説明も説教もいらない。ただ指を指してやればいいのだ。行くべきほうへ、やるべきことへ。
義人は観客席のあちらこちらに残ったわずかな観客を見渡し、声を張り上げた。
「残ってくれたみなさん!! 俺が目当てかそうじゃねーかわかんねっすけど!」
くわっと両拳を突き上げ、にかっと笑って、
「ガチで沸かせますんで、よろしくっす!!」
そしてゴブリンたちを返り見て、
「みなさんもマジよろしくっす!!」
応えは1000の右拳が胸を叩いた重い響きであった。
ああ、ああ。本当にこの王者は! 義人という男は!
セルファンは王者の背を直ぐに見つめ、ぐっと両手を握り締めた。
残った観客は疑いの目を彼の笑顔に向けるか、あるいは自失していて、誰ひとり王者の意気を讃えてなどいない。
でも、それは今だけのことだ。指相撲ひとつでゴブリンたちの心をこじ開けてみせた義人がマジでガチになるのだ。かならず彼らは全力で沸き立ち、今日という日を生涯語り続けることになる。
だから。
「ヨシト殿!」
背に呼びかけて、セルファンは両拳を高々突き上げた。
「祈るだけではなく見届けます! あなたのガチを、最初から最後まで!」
「押忍」
返り見てサムズアップした義人だが、ふと顔を曇らせて、
「そういやそろそろヨシト殿ってやめねっすか? なんかあれっす。俺らなかよしっしょ」
僕が女子なら今落とされただろうな、とか。
王者のなかよしの称号は後の文献に記されたりするんだろうか、とか。
あれこれ余計なことを考えながらも義人からの要請に応えるべく、背宇は考えて悩んで捻り出して。
「呼び捨てはしたくありませんし、やはりこの僕の燃え立つ敬愛を示すには“さん”づけでは足りませんから……ヨシト、氏?」
「ううん、古式ゆかしいオタクっぽくなったねぇ」
そんな花子のコメントはさておいて。
静まりかえった場の内へ、ついにシャザラオが進み出る。
1000の視線が集約するただ中を歩き抜けていくその姿は、まさに威風堂々と表すよりなかった。
身につけた装束はガウチョパンツめいた下袴(ズボン)と草鞋のような履き物のみ。裸の上体は分厚い筋肉にみしりと鎧われ、そこに秘められた膂力の重さを惜しむことなく知らしめる。
戦場で遣えそうかはともかく万全の仕上がりってやつだね、勇者。
胸中で評した竜魔へ当の勇者が歩み寄る。そして右の拳を胸にあてがい、頭を垂れて言った。
「忝い。竜魔殿のお力添えで負えた」
負えた、か。
花子はため息になってしまわないよう、力を込めて息を吹き抜く。
シャザラオはここにある1000のゴブリンの思いを背負えたことに感謝した。その勇者としての直向きさが、彼女にはたまらなく辛い。ここにあるゴブリンたちが「勇者の護衛」だけの役どころではないと察していればこそ。
「竜の約束に従っただけのことさ。それに、うちの王者は公平とか公正ってのが大好きだしね」
思いを含ませずに告げた彼女へ再び一礼した勇者は、もう一歩を踏み出し、義人の直前に立った。
「ヨシト殿」
右拳で自分の胸を強く叩く彼へ、義人もまた自分の胸を右拳で叩き、応える。
「シャザラオさん」
王者が押し詰まった静謐を押し退けて進み、その右拳を伸べれば。
なにも言わずにシャザラオもまた右拳を伸べて。
ふたつの拳がしかと突き合わされたのだ。
江戸時代の武士は互いの刀の鍔を打ち合わせることで固い約束を交わしたというが、その“金打”に等しいものが通じ合う。
やっと迎えられたこのとき、互いに全力で打ち合おう。