シャザラオがいるのとは真逆、東側に位置する控え室にて、王者一行は支度を進めていた。
「いろいろ考えたんだけど、これがいちばんいいだろう?」
両手が失われた後、傷口に巻かれていた包帯を取り出して花子が言う。
「なんか縁起悪くねっすか? 手、取れちゃいそうっすよ」
苦笑いしつつも受け取った義人は手早く両手へ巻きつけ、固めていった。
バンテージは拳を痛めないためだけでなく、手を握り込みやすくしてパンチの威力を上げさせるためのものでもある。グローブがない今、彼を守ってくれる唯一の防具だ。
義人は幾度か拳を打ち合わせて巻き具合を確かめたが。ただの包帯であるはずがテーピングで固めたようにしっかりと固定されていて。これならば全力で打ち込める。
「術式染ませてあるし、途中で解ける心配は要らないよ。手が取れないかは保証できないけど、まあ落っことさないようにはしておいたつもりだし」
このくらいなら君の珍妙な公平公正主義にも障らないだろう?
「押忍、あざまっす!」
勢いよく頭を下げた義人へ、今度はセルファンが包みを差し出す。
「僕からはこれを。急いで仕立てましたので、お体に合わないかもしれませんけど」
包みの中身は試合用のトランクスとブーツだった。
鎧下を元にしたのだろう。ボクシングの試合に用いられるものより厚く、ごわついているが、動きに問題はなく、それこそ頑丈さはこの上ない。
ブーツもソールの厚さは気になるが、ごく柔らかく仕上げられていて、これならステップワークが引っかかるような心配をせずに済む。
ちなみにどちらも黒単色で、どこか“ぬばたまの閃牙”こと犬の毛色を思わせる加工が施されていた。
手早く着替え終え、軽くステップを踏んで装具の具合を確かめた義人は、しかし先ほどのようにはしゃぐことなく、静かな目をセルファンへ向ける。
これは、お気に召さなかったのでは? 息を飲む王子だったが……
「セルさん、ほんとにありがとうございました。これで俺、ボクサーやれます」
思わず口調をあらためてしまうほどに嬉しかったのだ。
義人にとってのボクシングは大切な約束を守るための手段である。それはこれまでもこれからも変わらない。だが、それでも。
好きとか嫌いとかじゃねーよ。俺は殴るしか能がねーからボクシング選んだんだ。こういうのなんてんだっけ? い、いちれーなんとか。
「おいおい態度違い過ぎだろう! あたしにも感謝感激して鼻水垂らしてむせび泣け!」
花子の怒りはまあ、置いておくとして、彼が一蓮托生と言いたかったらしいこと、代わって記しておこう。
「よー、おめーも見とけよ俺の晴れ姿ってやつー」
室の隅でうとうとしていた犬を強襲、すぽんと引っこ抜いて立たせて、義人は装具を見せつけた。
「どーよ、犬色だろ? 犬もいっしょに試合すんだぜ、なーっ!」
言われながら頭をわしゃられた犬は、口をにゃむにゃむさせつつ半開きの目を逸らす。意味はわからなくても、ものすごく嫌そうなことだけはわかるし、義人にも伝わってはいた。
だからこそ彼は犬をぎゅっと抱きしめて、ささやきかける。
「犬が俺のこと好きじゃなくて冷たくってもさ、俺は犬のことガチで大事だしマジで大好きだかんな」
そしてぱっと離れて立ち上がり、もう一度そっとかがみ込んで黒い頭をさらっと撫でた。
犬は眼をしばたたき、「ぐう」。不満を述べる。
それはなでられたことに対してなのだろうか? それともひと撫でで済まされたことに対してだったのだろうか。
花子はふと漏れ出しそうになった笑みを噛み殺し、視線を逸らした。
やれやれ。二代め王者は初代と違って犬たらしだねぇ。
まあ、あたしもある意味たらされたのかもしれないけど、なんにしてもだ。
あたしはあたしの都合、犬は犬の事情を君に預けてるんだし。まずは勝ってもらわないと話にならないよ。
義人はあらためて室の内でステップワークを演じ、両の拳を振り出した。
ジャブがはしる。
ストレートが伸びる。
フックが風を斬り、アッパーが空を弾き上げて。
「よっし」
グローブ、マウスピース、ファールカップ、ワセリン、足りないものはいくらでもあったが、しかし。
ガチの勝負を演じるために足りないものは、ひとつとしてない。
「一発やってやりますか!」
競技場へ続く薄暗い通路の先から、波打つざわめきが寄せてくる。
これは声だ。
100か500か1000か、いや、多分それ以上の観客の声。
そういや俺、こんなたくさんの前で試合すんの初めてだわー。
常の試合では数百人が入れば上々。しかも大半が自分に興味のない、他のボクサー目当てのファンだ。
しかし今日は違う。1000を越える数が、義人とシャザラオを見るために来ているのだから。
「うわ、マジ燃える」
思わず口に出せば、後ろを歩いていたセルファンがびくっと跳ね上がり、青ざめた顔の中で紫に変色した唇をぱくぱくさせて、
「ヨシト殿っ、緊張はっ、していませんっ、かっ? 僕はそのっ、すみませんっ。なにもっ、できないですがっ――ご武運を!」
緊張の余り歯の根が合わない様子ながら、それでも必死で思いを伝えようとしてくれて。
「イケメンって心ん中までイケメンなんすね。やばい、勝てるとこねー」
故にこそ義人は美少年へにいっと笑いかけ、義人は包帯で固めた右拳を挙げてみせた。
「飯食わせてもらって、練習付き合ってもらって、セコンドまでついてもらってんじゃねっすか。でも、そやって信じてくれんのがいっちばんありがてーっす」
この場をごまかすための言葉ではありえないことは、表情を確かめるまでもなく知れた。いや、正確に言うならセルファンはそう思い込んだのだ。
だって僕は王者に極めて深い興味関心を持ってすべてを追求したい愛好家だよ? 王者の言葉は疑わないさ! 言葉だけじゃない、全部だ。全部信じる。ヨシト殿のことを、その勝利を!
と、燃え立つ重い思いを胸に秘め、今一度繰り返した。
「ご武運をお祈りします」
さらに後方からふたりを見守る花子はなにも言わず、半ば閉ざした両目を一歩ごとに迫り来る光へ向け、ひとつ息をつくばかり。
観客席はすでに埋め尽くされていた。
すり鉢の底にある競技場のど真ん中、やはり円状のステージ(?)に立った義人は、外壁を乗り越えて差し込む朝日に目をしばしばさせる。
「外やばいっすね。まぶしーっすわ」
と、ここで轟と沸き立つ歓声。
前後左右、それこそ360度から降り注ぐ声音を細めた視線でぐるりと薙いだ彼は、唐突に眉を引き下げて、
「なんすかあれ? どうなってんすか?」
観客席にあるものは人、人、人人人人人……数千にも及ぶ人。
「ゴブリンどこにもいねーんすけど!?」
わめく義人をなだめるでもなく、花子は平らかに説いた。
「応援の力ってのは君も知ってるだろう? 女王はとりあえず全力で君を応援することにしたみたいだね」